ホワイトノイズ、ピンクノイズ その5 作:まりえしーる 発表日: 2005/11/22 10:00

階段を降り一階フロアへ踏み出した時、「ヒカワくんっ」という声とともに俺は突き飛ばされよろめく。がんっ、という音を聞いて振り返ると、まりえが床に倒れている。そのそばに転がる作業用ヘルメット。まりえは飛んできたこいつに直撃されたんだろうか。俺を助けようとしたばっかりに。

「ちっ」という舌打ちの音。聞こえてきた方向を見ると、5メートルほど離れた場所にサラリーマン風の男が立っている。こいつか。こいつだ。俺はキレた。男に向かってダッシュする。ただじゃすまさねえ。

男はポケットから何かを取り出し、手首のスナップで空中に小さな光の円を描いた。バタフライナイフだ。かまうもんか。俺は気にせずスピードを上げた。ばかめ。いい気になってろ。

男はナイフの先を俺に向けようとして初めて異変に気付いたようだ。男のすぐ隣に現れたアズサさんが左手を伸ばし、親指と人差し指で男のナイフの先をつまんでいる。ジョークのような光景。それだけのことなのに男はナイフを1ミリも動かすことができないでいる。男にはアズサさんが見えていない。俺が切迫してもまだ必死にナイフを振ろうとしている。まるでナイフが透明な万力で空中に固定されてるかのように感じているだろう。もらった。

俺のモーションを見た男は空いてる左手で自分の顔をブロックするが、俺は気にせずにガードの上から男を殴る。殴る。殴る。男は何故かナイフを握り締め離そうとしないので殴られても後退できない。これは殴りやすくて助かる。ひとってのは一端なにかに執着すると、そいつを捨てなきゃ命取りって場面になっても気付かないもんなのか。ベンキョーになる。10発くらい殴ったとき、男はようやくナイフを離して後方に倒れた。

アズサさんがいなかったらどーなってたかな。そう思って見ると、アズサさんはバタフライナイフのメカニズム解明に夢中だった。開いたり閉じたりを面白そうに繰り返している。このひとは、もう。

俺は倒れている男の脇腹を蹴ってから、男の両腕にヒザを乗せて馬乗りになった。胸ポケットを探ってサイフを抜き取り、中から運転免許を取り出す。犯行現場にIDを持って来る男。立派なこころがけだ。必勝の自信でもあったんだろうか。いや、ただのバカだろうな。免許で顔をたたき、男に目を開けさせる。

「ハナシを聞かせてもらおうか」

男から聞き出したことは、テキトーなアドレスにメールばらまくと返事が帰って来るんで、つい、みたいな退屈なハナシだった。聞くんじゃなかった。これが初めてです、と言うが、あっちこっちでやってたんだと俺は思う。こんな手口にひっかかる連中がいるってことが驚きだ。ま、そのうちのひとりは俺のクラスメートなわけなんだが。

「この免許はもらってくぜ。不便なら再発行でもしてもらえ。こいつは俺の知り合いに預けておく。もしこれから先、俺とあの娘の身に何か起こったらすぐケーサツに届けてくれってメッセージ付きでな。わかったか」

「わかりました」「二度と俺たちの前に顔出すな」「出しません」「よし」

男のポケットには手帖とペンまで入っていた。いいものを携行してるなあ。有能な逮捕者だ。

「じゃあさあ、その旨、一筆書いてくれるかな」「え」「書くよな」「…はい」

俺は立ち上がり、男のカラダを自由にしてやった。男は震えるペンを、なんとか紙の上に滑らせる。書き終えたものを取り上げ、名前と住所が免許と一致しているか確認してから、もう一度男の脇腹を蹴った。うずくまる男のアゴを蹴り上げ大の字に寝かせてやる。まだなんかすることあったな。なんだっけ。そうそうと思い出し男のカラダを探って、まりえのケータイと、ついでに男のケータイも発見した。男のケータイは証拠物件として押さえておくべきか、ここで破壊すべきか、迷う。迷ったのでとりあえず持ち帰ることにした。たぶんすぐ捨てちゃう気がするけど。

男の相手に飽きてきた俺は、フロアの隅にあったガムテープを取って来て男の両手首を背中側で固定する。これで目を離しても安全なんじゃないかな。

まりえは大丈夫だろうか。振り向いて見ると、アズサさんがまりえの上体を起こして建物の外壁に寄りかからせている。もうバタフライナイフには飽きたようだ。

「まりえ、大丈夫かな」。隣に来た俺が声をかけてもアズサさんは答えない。じっとまりえを見おろしている。どうしたんだろう。

するとアズサさんはかがんで、まりえの額にキスをした。

唐突で意外な行動だ。俺には意味がさっぱりわからない。だけど、それは息を飲むほど美しい光景だった。

アズサさんがまりえから離れ姿を消す。それが合図だったかのように、まりえがゆっくり目を開けた。

「おい。大丈夫か」「あ。ヒカワくん。ヒカワくんこそ大丈夫?」「俺のことより、お前、ケガは」「あーよく寝た。なんかアタマがすっきりしたー」「なんだそりゃ」

なんて脳天気なやつなんだろーか。でも無事でよかった。「立ってみろ。どっか痛くないのか。ヘルメット、どこに当たったんだ」

まりえは立って服のホコリを払い落としながら「んー、どっこも痛くもなんともないよ。あれ?」

「あれ、ってなに。なんかおかしいのか?」「ねえ、あのひと、いたよね。さっきまで」「え。お前わかってたのか、アズサさんがいたって。気絶してたんじゃねーのか」「うん、してた。でもさ、音が変わったから。ジャーって鳴ってたのが、ザーって低くなったから、あのひとが来たってわかった。だけど、だけどね、今は、音が何にもしなくなった。うわあ、こんなの久しぶり。すごい。すごいすっきり」

どうやら耳鳴りが直ったらしい。ヘルメットの当たり所がよかったのか。いや。そんなことはないな。

「あたし、ちゃんと見たよ、気絶する前に。ヒカワくんがアイツをタコ殴りにするの見たんだ。自分が殴ってるみたいだった」「ちょっとは気がすんだか」「うん。サイコーだったよ」「そっか。せっかくだから自分の手でも殴っとくか」「よしっ。やる」

俺は冗談半分だったんだが。まりえは倒れている男の元へひょこひょこ四つん這いで行き、立ち上がると、なんと男の股間にケリを入れた。こーゆーシーンを目撃すると、自分まで痛くなってくるのはなぜだろう。こんな感覚は女には想像付かないだろうな。

「いてててててて。足痛ーい。気持ちいいけど、痛いね」「じゃあ帰るぞ。歩けるか」「人間は歩けるでしょ、フツー」「そーじゃなくって」

まりえは何も無かったかのように、いや、そんなレベルじゃない。まるで猫科の動物のように、しなやかに歩き出して俺を驚かせた。それは今までまりえが見せたことのない洗練された動作だった。


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