ホワイトノイズ、ピンクノイズ その4 作:まりえしーる 発表日: 2005/11/21 15:00

まりえは二階にいた。フロア中央にへたりこんでいる。俺は駆け寄った。

「ヒカワくーん、すごい、信じられない、来てくれるなんて。よかったー、来てくれて」「なにがあった」「メールで、撮影でみんな手が離せなくて迎えに行けないから、勝手に入って来てくれ、二階に上がってくれって言われて、来たら」「来たら」

「誰もいなくて。あれ?って思ってたら、いきなり男に後ろから抱きつかれた。声出すなって言われて。こわかったよー」「そいつはどこ行ったんだ」「ヒカワくんの声聞いて逃げてったよ、奥の非常階段から」

俺は非常階段のほうへ走りながら聞いた。「で、なにされた。ケガしてないか」「胸触られた。お尻になんか押し付けられた。手錠かけられそうになった。つかまれた腕がちょっと痛いくらいでケガはしてない。でもこわかったし、くやしい」

非常階段の上下を見てみるが、ひとの気配は無い。もうビルの外に逃げたんだろうか。

「相手はひとりか」「ひとりしか見てない」「どんなヤツだ。顔見たか」「リーマンのカッコしてた。顔は、逃げるとき横顔をちらっと見ただけ」

ケーサツに通報すればメールの通信記録から相手を特定できるかもしれない。できないかもしれない。できない可能性は高い。後のことを考えれば、まりえはケータイを替えるべきだろうな。せめてメアドは変えなきゃ。「お前、ケーサツに電話しろ。まだ遠くまで行ってないはずだ」「ケータイ、男に持っていかれた」「え。そっか」

抜け目の無いヤロウだ。俺はまりえの元に戻る。何を言ってやるべきかわからない。「落ち着いたか。立てるか」「うん」

何も無くてよかった、と言える場面なんだろうか。まりえの顔は血の気が無い。唇が震えている。怖かっただろうな。でも世間は誰も同情してくれないぞ。ノコノコ自分から誘いに乗ったバカと思われるだけだぞ。イヤな世界だ。それが現実だ。でもそんなハナシ、今のまりえに言えるわけがない。

まりえを支えながら階段へ向かう。ケーサツに被害届けを出すべきだろうか。逃げたヤロウをほっとくわけにはいかない。でも届けを出すかどうかは、まりえが決めなきゃダメだ。

被害届けを出せば、お父さんお母さんにも事件に巻き込まれたことが知られる。知人友人にも知られるかもしれない。気の重いことが延々と続く。ケーサツにあれこれ聞かれ、まわりからもあれこれ詮索され、犯人に逆恨みされることを恐れ、みたいな。

カラダ触られて怖い思いをしただけなんだから、みんなに知られることなど気にせずにケーサツに行き、犯人検挙に励んでもらえばいいって思う。でも逆に、その程度の被害だったなら何も無かったことにして忘れちまえ、って考えかたもあるだろーな。

それは泣き寝入りってことだ。嫌な気持ちは残るけど、わずらわしいことに関わらずにすむ、昨日までのとおり暮らしていける、そんな選択だ。そっか、泣き寝入りってそーゆーことか。泣き寝入りなんてバカげている。でも、そのバカなことを選択するひとの気持ちが、今初めて少しだけ、わかった。自分ひとりが黙ってガマンすれば、世界は今までのままでいてくれる。そんなことを願うんだろう。

被害者になるってのは不幸なことだな。本当に。俺はこないだ被害者になったけど、目の前でアズサさんが復讐してくれるのを見たせいか、事件のことをあんまり気にせず生きている。こんなのはレアなケースなんだろうな。

とりあえずここを出よう。俺たちは階段を降りる。俺は事後処理のことばかり考えている。それはまだ早すぎだってことも知らずに。


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