キープ・オン・ムーヴィン その17 作:まりえしーる 発表日: 2005/11/09 10:00

こんなことを聞かされるとは。やはりここに来るべきではなかったのか。なんにせよ、もうフジノから聞きたいことなど無い。別れを告げて帰ろう。

そう考え立ち上がろうとしたコナツの左頬に、突然冷たいものが触れた。するとコナツの頭の中に様々なイメージが突如として湧き上がる。まるで頬に触れている何かからコナツの脳に流れ込んで来たかのように。

「ねえ、フジノ」。コナツは頭の中で暴れるイメージの奔流を少しずつ把握しながら話し始める。

「な、何よ。もう話すことなんか無いわ。帰ってよ」。兄に関する残酷なハナシを聞かされた後とは思えぬほどコナツの口調が冷静なのでフジノは動揺している。

「フジノ、おなかに、赤ちゃんがいるのね」「な、なんてことを。な、なんで」「妊娠してること自体は、いいの。おめでとう。でもね、フジノ、教えて」「なにを。なにをよ」

「あなたはどうしてアニキに、その子の父親なんかじゃないアニキに、『あなたの子よ』なんて言ったのか。そのわけを教えて」

「ど、どうしてそんなこと知ってるのよ。お兄さんに聞いたの?ヨシカワさんはあなたに喋ってたの?」

「いいから教えて。どうしてあたしのアニキにウソをついたのか」

「知ってたのね。なによ、なんなのよ。最初から全部知ってたくせに、どうしてあたしのハナシなんか聞くのよ。腹の中で笑いながら、あたしに喋らせてたのね。ひどい」

コナツは平手でテーブルを強く叩く。バン!という大きな音に驚きフジノは沈黙した。

「フジノ、教えなさい」

先刻までのかたくなさがフジノから突然消えた。おびえたような眼には、すでに邪悪な光は無い。

「わかったわ。全部話す」。そしてフジノはこの数ヶ月のことを語り始めた。

この夏フジノは特に好きでもない男と寝た。ゼミの先輩。避妊をしない男。それを後悔していたフジノは、セックスの後先輩が急にカレシ面をし始めたのに強い嫌悪感を催し別れた。

その後悪い予感が的中する。夏の終わり頃から生理が来なくて不安を感じていたフジノは、ある秋の日に産婦人科に行き、なんと出産予定日まで記入された妊娠届出書をもらって帰ることになった。この届出書を保健センターに提出すれば母子手帳が交付されるという。母子手帳?あたしが?自分がまるで別の世界に踏みいってしまっていることをフジノは知った。

妊娠。すでに別れた男、二度と会いたくもない男との間にできたコドモ。フジノは悩んだ。中絶手術で悲惨な目にあった知人を過去に二人も見てきた。中絶はしたくない。しかし学生の自分がひとりでコドモを育てられるはずがない。

コナツがアパートを出て一人暮らしを始めたのがちょうどその頃だ。アパートに残ったコナツの兄は、フジノの目には寂しそうに見えた。その姿は何故かフジノを引きつける。弱っているオスを見つけた。フジノは自分が何をしようとしているのかよくわからないままにコナツの兄を部屋に誘い、二人で酒を飲み、自分から抱きついてセックスをした。

コナツの兄はそれからフジノによそよそしい態度を取るようになった。フジノと寝てしまったことを後悔しているのは明らかだ。しかし、彼のそんな冷たさがフジノのプライドを傷つけ執着心に火をつける結果となった。

ある夜フジノはコナツの兄の部屋を訪れ、ドアを開けた彼をなじった。なぜ自分と会おうとしないのか、と。世間体を気にしたコナツの兄は、フジノを部屋に入れた。するとフジノはなんと彼に結婚を迫った。肉体関係を持ったのだから責任を取れ、と言って。コナツの兄は唐突な展開にうろたえ、それはできない、と拒否した。自分には思いを寄せているひとがいるから。

逆上したフジノは相手のことを聞きだそうと彼を問い詰めた。コナツの兄は最初答えをしぶっていたが、すぐに決着をつけたいという気持ちから、自分が通っている「オトナのためのピアノ教室」の講師がその相手で、何度か食事に行った、結婚したいと考えている、とフジノに告げた。フジノがあきらめてくれることを願っての告白だろう。

しかしコナツの兄のコトバはフジノの妄執の炎に油を注ぐ結果となった。翌日からフジノはコナツの兄を何度も尾行し、ついにピアノ教室と、その講師を見つけ出してしまう。

フジノはコナツの兄がレッスンに来ない日を選んでピアノ教室に行き、講師を待ち伏せた。そして仕事を終えて出てきた講師をつかまえ、「ヨシカワさんのことで話がしたい」と強引にファミレスに連れて行き、母子手帳を見せた。彼の子供よ。あたしと彼の子供。だから彼から手を引いて。講師は尋常ではないフジノの様子に青ざめた。

その日を境にピアノ講師が突然自分を避け始めたことに焦ったコナツの兄は、苦労の末に講師から事の顛末を聞きだした。フジノが自分のコドモを妊娠。そんなバカな。僕はあいつを愛してなどいない、あんな女の言葉を信じるのか。そんな主張もピアノ講師には通じなかった。講師と交際している期間中にフジノと寝た事実、そしてフジノが身篭っているのは自分のコドモかもしれないという可能性、そのどちらもコナツの兄は否定できなかったのだ。

ピアノ講師に去られた傷心のコナツの兄はその夜、フジノが妊娠の事実を自分より先に、ピアノ講師に直接告げたことへの怒りからフジノの部屋を訪ねた。フジノは泣いて弁明した。あなたを愛してるの。あなたの子供をどうしても守りたかったの。あんなひどいやりかたしてごめんなさい。でもあたしの気持ちをわかって。

フジノの一途な気持ちは、コナツの兄を動かした。そもそも実直な彼は、フジノのやりかたに怒りを覚える一方でコドモができたことへの責任も感じていたのだ。それゆえフジノをあっさり切り捨てることに抵抗があった。フジノのやったことはひど過ぎる。しかし、自分への愛ゆえにとった行動とするならば、仕方がないことかもしれない。コナツの兄はそう考え始めていた。ここに越して来た頃のフジノが見せたやさしさも覚えている。わざわざ手料理を持って来てくれた。夜中にもかかわらず、自殺すると騒いでいた妹を説得しに来てくれた。妹の命の恩人。けっして悪い女ではないはずだ。もう、なるようになれ、という自暴自棄な気持ちもあって彼はフジノを許そうとした。

コナツの兄はピアノ教室に通うのをやめ、フジノの部屋で夜を過ごす日が続いた。そんなある夜、床で眠ってしまったフジノをベッドに運ぼうとした彼は、足元にあったバッグを蹴飛ばしてしまう。バッグの中身が床にこぼれる。その中に母子手帳があった。彼は何の気なしにひろげて見る。彼の眼はそこに記されていた日付に釘付けになる。

俺と寝たとき、フジノはすでに妊娠していたんだ。

翌日コナツの兄は会社を休んでピアノ講師の自宅を訪ねた。電話はとっくに着信拒否されているから。「どうかハナシを聞いてください。あのコドモは絶対に僕とは無関係だと証明できます。あの女のハナシは全部ウソです。どうか聞いてください」

ドアの向こうから聞こえたピアノ講師の答えは、「もう二度とここには来ないでください。迷惑です。毎日ヘンなものを送りつけてきて。警察を呼びますよ」

フジノは大学で、コナツの兄から電話を受けた。「お前はなんてことをしてくれたんだ。なにがしたいんだ。俺を破滅させたかっただけなのか」

その電話で自分のウソがすべて露顕したこと、にもかかわらずコナツの兄がピアノ講師から完全に捨てられたこと、それらを悟ったフジノはその日からアパートに戻るのをやめ友人宅を泊まり歩いた。そして数日後ニュースで、あるサラリーマンの自殺を知った……。

ここまでのハナシを聞いて、コナツは言った。「フジノ、あなたは狂ってる」

「ふふ。ふふふふ。何を今さら。あたしが狂ってる?あなたが一番よく知ってるでしょう。あたしがいつ、どうして狂ったかなんて。わかってるくせに。今頃何言ってるのよ。あははははははははははははは」


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