キープ・オン・ムーヴィン その8 作:まりえしーる 発表日: 2005/10/26 09:00

コナツは背の高い少年がモノレールの駅方向からやってくるのを見つけた。ここは朝の羽田空港。不倫旅行らしく別ルートで空港へ向かおうと決めたのだが、不倫ごっこをしているだけのような気もしてくる。だって空港からはおおっぴらにふたりで行動してしまうわけだし。

「なんか軽装だねー。下北半島はもう寒いんじゃないかな」「なんとかなるでしょ。2日間だし、コナツさんがいるし」「なにそれ」「24時間抱き合ってればあったかいでしょ」「一日中かい」「不足ですか。こんなカンジですが」「満足じゃ。苦しゅうない」

搭乗ゲートが開く。朝日に輝くマクダネル・ダグラスMD-81が待っている。平日なので乗客はビジネスマンばかりだ。シートは2列と3列の並び。2列側の席が取れてよかったな、とコナツは思う。あたしたちは出発から到着までずうっといちゃつきます。お仕事のみなさん、ごめんなさい。

「ふたりで旅行するの、初めてだね」「感慨無量」「なにそれ。ねえ、なんで手のひらに汗かいてるの」「あー、やましい気持ちが湧き上がってて」「どれ。うわ、このシチュエーションでこれはマズイだろ」「目的がある旅だってのに初手からこんな状態じゃあ、先行き不安だなあ」「他人事みたいに言うなよ」「他人みたいなもんだって。自分の意志とは関係ないんだから」「これって自分じゃコントロールできないんだ」「これっ、て、いつまで握ってるんですか」「どうやらあたしもコントロールできない気分、らしいよ」

コナツは夫の名前で少年のチケットを買っていた。もし事故が起きたら、刑務所で服役中の人物の名前がニュースで流れることになる。不倫はよくないけど、これはもっとよくないことだったな。他人の名前で死ぬのは、やはり、ダメだ。少年の婚約者や家族への最低最悪の仕打ちだよなあ。とろけて蜜のようになった脳でコナツはそう考えた。

羽田から三沢空港へは一時間ちょっとだ。まもなく到着、というアナウンスを聞いてコナツはなにかを思い出す。

「もう着いちゃうのか。あたしホントはキミといろいろ話したいことがあったんだ」「ずっと話してたじゃないですか」「こーゆーのじゃなくて。なのにふたりになるといつもダメになっちゃうんだ、あたし」「ダメになるときのコナツさんもサイコーです」「なんか地底より天井が低い世界で最高評価を受けてる気がするが」「サイテー男の俺が評価してるんだから当然でしょう。ま、ハナシする時間はまだまだたっぷりあるし」

三沢空港でコナツはレンタカーを借りた。「むつ市までドライブ。3時間はかからないと思う。ナビよろしくね」「眠くなったら言ってください。そしたら俺が目が覚めるようなことをしてあげます」「キサマ、運転中にムネ触ったりしたら殺す」「了解です」「ちょっとぐらいならいいよ」「危ないって。死ぬって」「あはは。出発」

天気がいい。コナツが予想していたより気温は高かった。クルマは空港を遠く離れ国道338号を北へ走る。右手に広がる太平洋は光に溢れている。「きっもちいーなー。なんだか縮こまってた心が解放されてくみたいだよ」「俺こんなに北に来たのは初めてだ」「あたしは北海道は行ったことあるんだ。でも青森は初めて。なんかさあ、一泊二日じゃもったいなかったかな」

あたしはなにを探しに来たのかな。この道を走るために来たような気がするくらい気分がいいや。人生っていいこともたくさんあるじゃないか。悲しいこともいっぱいあるけど。取り返しのつかないことをしてしまった、このあたしにだって、こんなに気持ちが晴れることがやって来たじゃないか。アニキにこの世界を見せてやりたかったよ。

でも、とコナツは考え直す。死ぬことしか考えられなかったあの頃に、たとえこの風景を見ても、あたしは何も感じなかったかもしれない。アニキも同じことか。

「まずはセックス、次に恋」。「あのひと」の魔法のコトバを思い出す。あたしはそれで生き延びた。つらい記憶がが過去へと流れ去るまでの時間を、セックスと恋が埋めてくれた。そうだ、時間と恋。いつでも時間と恋は、確実にひとを癒してくれる。もしも今日、この道をひとりで走っていたとして、果たしてあたしは同じように幸せになれただろうか。コナツは前を見たまま左手を伸ばし少年を探す。こんなふうに手を伸ばすだけで、すぐに握り締めてくれるひとがそばにいる。こんな奇跡が起こるんだ。あたしの人生にも。

「ねえ」「はい」「あたしは今しあわせ。生きててよかったって思ってるよ。あたしはキミと、キミが大切にしてる髪の長いひとが大好き」

「もうちょっと先に休憩所があるみたい。寄りましょうよ」「おなかすいた?」「いーや。コナツさんの幸せな顔をまっすぐ前から見たいから」

「あははははははははは」

コナツが見ている前方の風景が、少しにじんだ。


前へ 目次 BBS 次へ
inserted by FC2 system