ジンクフィンガー その7 作:まりえしーる 発表日: 2005/12/06 12:00

「あんたらあ、あたしを殺ふんれしょ」

薬物の影響でろれつが回らないカホが言った。リンコは内心驚くが聞いていないフリをして見張りの男を盗み見る。ヒキタという見張り番は顔をこわばらせている。図星なんだ、とリンコは思う。でもこの男にはできそうもないな。命令で仕方なく悪事に手を染めているサラリーマン。上司に弱みでも握られてるんだろ。そんなとこだ。

リンコとカホは高級マンションの一室に幽閉されている。ふたりをここに連れてきた男たちはヒキタ一人を見張りに残し、カイエを呼んだ場所に向かった。

カイエはどうするだろう、とリンコは考える。ヤツはケーサツに行くだろう。ケーサツはハデに活躍して拉致グループを逮捕する。でも黒幕は現場にいないってことをケーサツは知らない。会社に残った社長って男は焦ってここにやって来る。そして口封じのためにあたしを殺して海外へ逃亡。うわっ、ひどい結末。

ここでぼーっとしてたらダメだ。リンコは脱出する手立てを模索し始めた。まずはこの手錠をなんとかしなきゃ。

「あの、おなかすきませんか」。リンコはヒキタという男に声をかけてみた。

「え。あ、はあ」「あたし、朝食べてないんですよ。あなたも朝早かったんじゃないんですか」「ええ、まあ」「冷蔵庫の中、見てもいいですか。いいですよね、見るくらい」「え、あ、はあ」

リンコはソファから立ち上がりキッチンに向かう。ヒキタが困ったようすでついてくる。

意外なことにカホの大型冷蔵庫には食材が豊富に貯蔵されていた。野菜に卵。ラップをかけられたオカズの残りや保存容器に入った梅干。高級マンションとのギャップを感じる。この境遇を手に入れる前のカホは、つつましい生活を送っていたんだろうか。

「いろいろありますね。冷凍庫にはゴハンまである。ほら、一膳分ずつ小分けにして」「あ、ホントだ」「でもラップだけして冷凍するってのは間違いなんですよ。ラップは水も空気も通すから。肉も冷凍してあるけど、ラップだけじゃ脂肪焼けしちゃう」「なるほど」「密封できる容器に入れて冷凍しないと。あたし、お昼、作りますよ。これ外してください」

カホはヒキタに両手首を差し出す。その唐突さにヒキタは動揺する。

「い、いや、それは、ちょっと」「料理する間だけ」「社長の命令ですから」「あたしがあなたみたいな骨格のひとに勝てるわけないです。逆らう気なんて全然ないわ」「骨格?」「服の上からだってわかります。あなたはスリムだけど、飾りみたいな筋肉つけた男なんかよりずっとタフだって。あたしなんかが逃げられるはずないわ」

「に、逃げたりしないですよね?」「無理よ。それにあたし怖いのよ。突然さらわれて、しかもあなたは強そうだし。じっとしてたら気が狂いそう。料理とかしてれば気が紛れると思うの。お願い。少しでいいからやさしくしてください」

全部ウソである。ヒキタは貧相な男だ。しかし彼はリンコの言葉でいい気分になっている。手錠を外してもらいながら、女のウソへの免疫が極端に弱いモヤシ男、という読みが当たったなとリンコは思う。経験値の不足を補うべき想像力までも欠けてるね、キミは。

「じゃあ麻婆ナスを作ります」。手錠を外されたリンコは宣言する。ヒキタはリンコのそばを離れない。包丁は持たせてもらえないかも。「えーと、ナスと卵。下ごしらえを電子レンジでしておくと料理は楽になりますよ」

リンコは電子レンジのターンテーブルにナス、卵、鶏肉を並べる。「え。直接置いちゃうんですか。ラップなしで」「余分な水分を飛ばしたいときはラップはかけません」「なるほど」。リンコはレンジの出力が600Wなのを確かめ、タイマーを30分にセットして加熱を始めた。

レンジを眺めていてもしょうがないから、とリンコはヒキタをソファに誘う。「コンタクトがさっき外れて、拾って入れたら目が痛くて」「ああ、赤い目してますね」「あなたはずっとメガネなんですか」「コンタクトも試しましたが、やはりメガネが楽です」「そうですよねー。あたしもメガネもう一度作ろうかな」「え。メガネ持ってないんですか。不便じゃないですか」「お風呂でシャンプーとサラダ油をよく間違えます」「笑うところなんでしょうか」「スルーしてください」

緊張が解けてきたな、とリンコが思ったときキッチンでパン!パン!パン!という音が聞こえてきた。

「きゃあ!銃声?ケーサツ?機動隊の突入?こわい!」。リンコは過剰演出かな、と思いながら叫ぶ。ヒキタは慌てて立ち上がりキッチンの様子を見に行く。リンコはソファの上にあったキュートなカバーをかぶったクッションを手にする。次にテーブルの大型クリスタル灰皿を取り、クッションのカバーの中に押し込んでからヒキタの後を追う。

「うわ、爆発してますよ、レンジの中が。なんですかこれ。あなた料理できないんじゃ。大丈夫なんですかあ。止めたほうがいいんじゃ」とレンジを覗き込みながらわめいているヒキタの背後にリンコが迫る。その間もナスの破裂音が響いている。

「下ごしらえはそんなものです」とリンコが言う。そして「なにをのんきな」と言いながら振り向いたヒキタの横っ面に、フルスイングでクッションを叩き付けた。

素手で殴るよりグローブを付けたほうが脳へのダメージが増す。ボクシングは観客を興奮させるためにグローブを採用してノックアウト率をアップさせている。マンガから得たそんな知識をリンコは試してみたのだ。

確かにヒキタは白目をむいて失神した。深刻な打撃を受けながらも外傷が目立たないから、観客に与える残虐性は軽減している。なるほど、プロスポーツ向きだ。

リンコはヒキタに手錠をかけてからポケットを探り、ケータイを奪って逃走した。


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