「だ、誰なんだ、あんたは」
カゲミは戸惑いを隠せない。「いくわよ」、ショートカットの女はそう言うと物凄いスピードで間合いを詰め、左手をカゲミの顔に突き出してくる。あまりの速さに焦ったカゲミは反射的にその手にナイフを振るう。手応えがあった。だがそれはかつて経験したことのない感触だった。
見るとカゲミのナイフは女の左手中指と薬指の間でキャッチされている。カゲミは驚くが、すぐ気を取り直す。それがなんになる、と渾身の力を込めナイフを引き下ろして女の手をまっぷたつにしようとする。だがナイフは微動だにしない。
なんてヤツだ。カゲミが女の怪力に唖然とした時、カゲミの顔は女の右手につかまれていた。見えなかった、ヤツの右手が来るのは見えなかったぞ。この女は一体なんなんだ。
顔をつかまれた瞬間、カゲミのカラダは硬直した。目を除き、どこも動かすことができない。
「あなたはなかなか役に立ったわ。だからご褒美に少しヒカワくんと遊ばせてあげた。楽しかったでしょ」
なに言ってるんだ、こいつ。それに、さっきまでと口調が違う。まるで別人じゃないか。というより、人間じゃない。
「でも、それ以上を望んだのは間違いよ。してはいけないことをしようとしたんだから、あなたは罰を受けなくてはならない。その前に、今までゴミ掃除をしてくれたお礼に望みをひとつかなえてあげる。あなたはあなたの望むとおり、いつかこのナイフで死ぬ。そう定めてあげる。よかったね」
なにがよかったね、だ。狂ってるよ。
「あなたはいつの日か、あたしの息がかかった者の手によって、このナイフで殺される。その人物は、あなたを魅了する。あなたの心は必ずそいつにつかまる。そして刺される」
なにをしゃべってるんだ、このバケモノは。助けて。
「次に罰を」
ああ、なんでこんなヤツに関わってしまったんだろう。
「これから言うことを一生守りなさい。もし破ったら、まずあなたの大事な育ての親が、あなたの目の前でひどい死に方をする。次にあなたの人生が終わる。わかった?では。今日中に街を出なさい。そして・・・」
はっ。カゲミは目を覚ます。アタマが割れるように痛む。ここはどこだろう。そうか、地下駐車場か。顔が熱い。あれはなんだったんだろう。夢を見ていたんだろうか。死の宣告。ナイフを握り締めているのに気付く。刃をたたみバッグを拾いビルを出る。
夢遊病者のような足取りで駅に向かう。頭痛がひどい。すれ違う通行人がみんな、あたしの顔を見てすぐ視線をそらすのはなぜだろう。この街を出なきゃ。ともかく出なきゃ。
ようやく駅に着いた。トイレに入り洗面台に両手をついて鏡を見る。カゲミは息を飲んだ。ヒザが震える。駐車場で起きたことのの記憶が鮮明に甦ってきた。
夢じゃなかった。現実だったんだ。カゲミは突然社長のことが気になって事務所に電話する。「カゲミです。社長は。え。皮膚科に?なんで。顔にカブレ?赤い手形?」
カゲミは呆然としながら電話を切る。あのバケモノ、なんてことをしてくれたんだ。あたしだけならまだしも、社長にまで呪いを。
早く電車に乗らなきゃ。早くこの街を出なきゃ。ホントにこの顔の手形は、この赤いアザは、ここから離れれば消えるのか。この街さえ出れば、元の自分に戻れるのか。あいつらと二度と出くわさなければ、この街に来る前のように生きていけるのか。この顔じゃ事務所に帰れない。なにが起きたかなんて、絶対社長には話せないんだから。あいつの、あいつらのことを誰かに話しただけで、それだけのことで、あたしも社長も、だなんて。なんてひどいやつらだ。
カゲミは電車の窓から流れ去っていく街を眺める。触らぬ神と、その神の加護の中で生きる男の暮らす街。あたしは神に触れてしまった女。
人並みのことをしたいと望んだのが間違いだったのか。男に安らぎを求めたのがいけなかったのか。なんでその程度のことが。くそっ。
夢なんか追うからいけないのさ。自分の人生に意味なんか欲しがったりするからいけないのさ。あたしはもう二度と男に胸をときめかせたりしない。だからあたしは、このナイフで殺されることだけは、ないんだ。あたしはこのナイフと生きる。他のものすべて、この街に置いていこう。全部捨てちまえ。失せろ。
カゲミは消え行く街、そこで過ごした日々、そして今日までの自分に別れを告げた。
「さよなら」