転落の坂道 作:まりえしーる 発表日: 2005/09/30 16:30

理性と感情はまったく別モノである。あれほど罪の意識にさいなまれてたくせに、ガッコに来て、いざ放課後になると俺はコナツさんのことばかり考えてしまう。俺には婚約者がいて、コナツさんには、はなればなれではあるが、夫がいる。俺たちの関係は、いわゆるダブル不倫だ。許されるものではない。わかってる。わかってるんだけど。

背徳の甘い味を知っているからこそ、ひとは道徳や倫理を尊ぶんじゃないだろうか。不義密通の背骨が溶けるような快感、その魅力の絶望的なまでの強大さを恐怖するからこそではないか。

カゲミと並んで化学実験室に向かう間、俺は体育館の方をぼーっと眺めていた。今朝通学途中で「今日はコーチが来る日だからさー」という会話を耳にしていたんだ。

「リーダー、リーダー」。カゲミが俺を呼んでいるのに気付く。どのくらい前から呼ばれていたのか、さっぱりわからないほど俺はヌケガラ状態だった。

「わり。考え事してた」「そのくらいはわかる」「で、なに」「リーダー、あのジュードーのひと、かなり強いよな」「え」

俺はアタマの中を覗かれたような気がしてまごつく。しかし、カゲミもコナツさんのことを考えながら歩いていたんだと気づく。

「リーダー、そー思わないか。あのひとは強い」「あーすっげー強い。初めてなのにあんなに強いなんて思わなかった」「はぁ?あのひとと戦ったことでもあるのか?初めてって?」「え。あ、そーじゃなくって、あるわけねーだろ。初めて練習見て強いと思っただけだ」

俺はかなりボケが来ているようだ。気をつけなきゃボロを垂れ流しまくることになる。

「あのひとが強いってことが、お前となんかカンケーあるのか。柔道やってるのか」「別に。あんなひとに勝つにはどーすりゃいいのかな、ってヒマつぶしに考えてただけだ」

俺はカゲミが食い入るようにコナツさんの練習を見つめていたことを知っている。ヒマツブシなんてとても言えない集中ぶりだった。まさかコナツさんと戦う気でいるんだろうか。でも何のために。気にはなるが、今はまだ追及する時期じゃないとも思う。経過観察事項としておこう。すぐ忘れちゃう気もするが。

ノジマ先生がみんなの前で口を動かしている。その声は俺に届かない。コナツさんの顔が見たい。顔を見るだけでいい。自分を抑えることができなくなった俺は、トイレに行くふりをして化学実験室を出る。足は体育館の方へ向かってしまう。すると向こうからやってくるのは、そう、柔道着を着たコナツさんだ。なんでこうなるんだろう。なんでコナツさんは練習中に体育館を、このタイミングで出てくるんだろう。

視線が合っただけで、お互いに求め合ってるのがわかる。一度きり、と思ってたはずなのに。それは行為を正当化するために、自分についた嘘に過ぎなかったことがわかる。

理性は嘘をつく。感情は嘘をつかない。だって感情は合理的である必要なんてないから。

「部活終わったらカロリービルの裏口で待ってて。車で行ってピックアップするから。念のためケータイの番号教えとく」

コナツさんが唱える番号を俺はその場でケータイに登録する。これで次はいつ会えるのかという不安がかなり軽減される、お互いに。二度目は無い、と思い込もうとしていた前回は連絡方法なんて話はしなかったんだ。

実験室に戻る足取りは軽かった。油断するとスキップでもしてしまいそうな自分が情けない。ああ、俺は自分のコントロールというものがまったくできません。化学部の部員たちが愛する後輩たちに思え、殺風景な実験室は真夜中のオアシスのように見える。真夜中のオアシスはおろか、どんな時間帯でもオアシスなんて見たことないけど。暖炉の炎を眺めるような優しい瞳で、俺はノジマ先生を見て過ごした。

「用事あるからここで」。下校の途中で俺はカゲミにそう告げる。「リーダー最近付き合い悪いな。来週あたりメシ食おうよ。なんかつまんねーから」「そーだな」

カゲミと別れた俺は一度カロリービルの前を通り過ぎる。周囲を警戒しつつUターンする。知った顔はいない。誰も俺を見ていない。なんという注意深さだ。悪事はひとを賢明にさせる。ビル入り口横の階段を駆け上がり、2階を縦断する。誰にも会わない。反対側の階段を慎重に降りる。裏口から出ると、すでに赤い車が止まっていた。俺はナビ側に滑り込んだ。

「おす」「遅くなりました」。俺たちは通行人から見えない位置で手を握る。「ヒカワくん、実はあたしの部屋のお風呂、まだ故障中なんだ。困ったな。どうしようかな」「それじゃあしょーがない。練習の後シャワー浴びないことには、ねえ、ひととして」「やっぱそーだよね。しょーがないなっ」。俺たちは笑いをこらえながら意味の無い会話を楽しんでいる。

コナツさんはクルマを発進させる。「今日からは、ちょっと遠くまで、行こう」。知り合いに見つけられないようなエリアへ、という意味だ。俺たちは共犯者だ。別々に死んで、別々に地獄に堕ちていく。

バイパスに出ると、もう俺たちはバカ笑いをガマンすることができなくなっていた。


前へ 目次 次へ
inserted by FC2 system