トルソー 作:まりえしーる 発表日: 2005/09/28 12:00

「悪いけどアパートまでは乗せていけないんだ。悪いね。途中で降りてもらってもいい?」

運転席のコナツさんが特に悪いとは思ってない口調で言う。「万が一フジノにキミといるところを見られたら、ちょっとうまくないの」

俺には応じるコトバは無い。

「知ってたかもしれないけど、あたしとフジノは恋人同士だったんだ。別れたの。あたしの勝手で。結婚したからって。そのあたしが結婚相手じゃない男といるところ見たら、フジノはどうなるか。考えただけで怖くて」

同じアパートの中でいろんな愛憎劇が渦巻いていたんだな。知らなかった。知ってもしょーがないことだし。

コナツさんはひとけの無い場所でクルマを停め、素早くシートベルトを外して俺に抱きつきキスをする。それから俺を突き飛ばす。

「降りて。早く降りて。さもないとホテルのハシゴしちゃいそうだから。あはは」

俺はクルマを降りた。「週3回コーチに行くことになったの。いつでも声かけてね。じゃ」

走り去る赤いクルマを見送る。夜の風は冷たい。もう秋なんだな。空を見上げる。俺には行く場所が無いなあ、とぼんやり考える。ヘッドライトの川辺で俺は、にじんだ星を数え始める。

気付いたら国営公園の広い運動場に来ていた。陸上トラックの中央まで歩いて芝生の上に寝そべる。

だるい。半分眠ったようなアタマで、知ってる星座を全部探す。いつの間にか俺の隣に犬が寝そべっている。濡れた鼻が星の光を浴びて光る。どこかから「マイシャ」が聞こえてくるような気がした。犬のいる方へ寝返りを打った。犬と目が合う。俺の視界を覆っていた眠気のフィルターが剥がれ落ち、神経が直接世界に触れる。

「ヤーボ!」

俺は飛び起きた。だがもうそこに犬はいない。でも確かに俺が昔飼っていた、もう死んでしまった犬、ヤーボだった。

俺の心拍数は上がったままだ。荒い呼吸をしながら俺は立ち上がる。そうだ。忘れちゃいけない。俺にはまだ見ていない場所がある。俺にはまだ迎えていない朝がある。明日いるべき場所が地獄だとしても、俺はそこを見なければならない。そうなんだ、俺は。

俺は星空の下を、夜の街を走った。俺の五感は冴え渡り、すべてが恐ろしくリアルに感じられる。俺はリアリティーの中に生きてリアリティーの中で死ぬ。

「想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり」

違う。そうじゃないんだ。敗北の甘さ切なさを抱きしめて恋愛に篭城する想世界の住人、それは俺の目指すものなんかじゃない。否。断じて否だ。俺は走った。

汗だくでマンションに着いた。部屋に入ると、エリカさんはリビングのソファでうたたねをしていた。俺は立ったまま見とれる。視線を外すことができない。その姿は、まるで美という観念の裸形のようだ。俺は今まで、ちゃんとエリカさんを見たことがなかったんじゃないだろうか。俺の感覚はずっと靄がかかっていたんじゃないだろうか。

リルケの「古代のアポロンのトルソー」、俺は突然そう思う。エリカさんのすべてが、光の反射によって俺の網膜に結ばれる像の、そのテクスチャーを構成するすべてのピクセルが、俺を見つめる小さな目だ。俺は生活を変えねばならないんだ。

俺は朝までエリカさんを見つめていた。


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