朝教室に入って席に座ると、遠くの席からカゲミがこっちを見ている。いつもとまったく違う表情でびっくりだ。目をハート型にしてシッポを激しく振っている。もちろんこれらは比喩表現である。俺が親指を上に向けるのを見て、カゲミは顔を紅潮させてうつむく。
このいつでも無愛想なコワレモノ女を、これほど興奮させてしまうとは。古川四郎のナイフってのは魔剣なのか。
すぐにでも俺に飛び掛ってナイフを奪い去りたいはずなのに、カゲミは恐るべきセルフコントロールの実力を見せ、結局放課後まで俺に近づいてこなかった。教室の中では必要最小限のコミュニケーションしかしない、という普段のスタイルを押し通したわけだ。ヘンなジャンルに異常な関心を示し、ヘンなところで意地を貫く。ヘンなやつ。かわいくてしょーがねーや。困ったな。
放課後、俺たちは白衣を着て化学実験室に向かう。俺と並んで歩くカゲミはふてくされた普段の表情をしてるが、俺にはわかっている。ヒジでカゲミをつついてやる。カゲミは必死に無表情をキープしようとしている。さらにつつく。カゲミは顔をこわばらせる。たぶん舌でも噛んで笑わないように努力してるんだろう。バカなやつだ。
実験室に入りドアをしめると、カゲミは満面の笑顔になった。シッポを振る音が聞こえてくるよーな気がする。
俺はバッグからナイフを取り出し、「おあずけ」のポーズでガマンしていたカゲミに渡してやる。
「うわあ」
カゲミはそれ以上コトバが出てこない。慎重な手付きでナイフの刃をひろげる。刃の根元に入ったSFという刻印を熱いまなざしで見つめる。
「古川四郎だ。やっと会えたね」
その光景を見ていた俺は自分が感動しているのに気付き、なんだか照れくさくなって視線をそらす。
「な、それ、お前にやる」「え」
カゲミが固まる。「お前にやる。それは、もうお前のナイフだ」「なんで」
「価値がわかる人間が持つべきだろう。俺にとってはペティナイフのほうが役に立つ。リンゴがむきやすいからな」「ダメだよ。できないよ、もらうなんて。こんな貴重なもの」「俺には何の思い入れも無いって言ってんじゃん」「父親のものなんだろ」「ヤツもほっぽらかしてた。俺が持ち出したのに何年も気付いてない。たぶん一生忘れたままだ。問題ない」「でも、さ」「価値がわかる人間に所有してもらえば、そのナイフだって幸せだろ。やる。お前のもんだ」
カゲミは刃をたたまずにナイフを両手でムネに抱きしめる。あぶなくないのかな。ちょっとこわい。
「ありがと。宝物にする。でもガラスケースに飾ったりしないで愛用する。毎日、これからずっと、死ぬまで、これをあたしのメインのナイフにする。絶対にカラダから離さない」
「大げさだな。それより、それ持って転んで自分を刺したりするなよな」「あはは、誰がするもんか。でも」「でも?」
「あたしはきっといつか、くだらない死に方をする。後悔する気にもならないような、ゴミらしい、しょーもない死に方。でも、せめてこのナイフでトドメを刺してもらえたらいいな」
「なんか、あぶねーこと考えてるな。そんな使われ方したいのかな、そのナイフ作ったひとは」「そのとおりだ。リーダーが正しいよ。あたしが間違ってるんだ。そんなことに使っちゃいけないものなんだよ。最高の芸術だから。あたしだって知ってるんだ、自分が間違っていることは」
カゲミは大きく息を吐いた。
「リーダー、ありがとう。これはとてつもなく凄いナイフだよ。お礼のしようがない」「いーよ」「それじゃあたしの気が済まない。でもこのナイフに見合うようなことは、あたしにはできない」「だから気にするなって」
「あたしを、あげる」「はぁ?」「リーダーの気が向いたとき、いつでも、どこででも、あたしのカラダを自由にして」「なんだそりゃ」「あたしにはそんな価値は無いってわかってる」「いや、そーじゃなくて」
「知ってるよ。安売りがイヤなんだろ。リーダーがそーゆーの嫌うのは知ってる。物々交換みたいでイヤなんだろ」「わかってんじゃん」「でも他に何も無いんだよ、あたしには、さ。でもヤリたくもないってゆーならしょーがないけど」
「いや、そりゃあ、すっげーやりたい。あー言っちまった」
「ホントに?あたしムネないぞ」「ああ」「男の子みたいなカラダだぞ」「ああ」「フロがダメで、シャワーも浴びてないときがあるぞ。それでもやりたいって思うのかな」
「あー本音言うよ。やりてー。すっげーやりてー。けどさ、俺には守らなきゃいけねールールがあるんだ。もうお前とほとんど破っちまってるよーなもんだけど。でもルール破ったら、俺は俺じゃなくなるんだ」
「事情はなんとなくわかる。なんとなく、だけど。でもうれしいや」「なんで」「あたしなんかに欲望をいだいてくれるひとがいるってことがさ」
なんか寂しいこと言うやつだな。「ラブレターあんだけ集めるアイドルの言葉とは思えねーな」「あーゆーのは違うんだよ。あれは、リアルじゃないんだ」。カゲミは俺の胸に額を押し付ける。「あたしはリアリスト、だからさ。リーダーがルールと折り合いがつけられる時が、もしも来るなら、その時は、いつでもいいから」
俺は自分の白衣でカゲミを包み込む。なんとなく、こいつは泣き出すような気がしたからだ。顔を隠してやろう、そう思ったんだ。
「リーダー」、カゲミが白衣の中で言う。「なに」「暑いわ。やっぱ」
まだ9月だもんな。俺たちはゲラゲラ笑った。折りたたまれたナイフも、カゲミの手の中で笑っていた。