ノジマ先生は俺とカゲミを勝手に化学部に入部させていた。先生が顧問をしている化学部は、こないだ最後の部員2人がやめちゃって廃部の危機に瀕している。それを恐れた先生は、危険物取扱者試験対策を教える代わりに俺たちを部員にしたってわけだ。ひどいハナシだ。だけど所詮この世は持ちつ持たれつ、俺は、まあしばらくの間は化学部員のフリをしてもいっか、という気分である。カゲミが試験に受かったら即逃げるつもりでいることは俺の目には明らかだ。
今日から俺たち、ブラザー・ギブ・アンド・テイクって名乗ろうかな。あ、カゲミは女か。
資格試験がどれほどのむずかしさか俺にはまだよくわかっていない。センセからわざわざ教わる必要があるんだろうか、という気もするいっぽう、俺とカゲミはけっこうバカだ、という現実もある。特に俺は飽きっぽい。ベンキョーせざるを得ない状況に身を置いたほうがいいかもしれないんだ。
「で、なにやんですか。俺たちが化学部に入ったところで」「むずかしく考えるな。実態は危険物取扱者資格取得のためのベンキョー会だ。で、たまに文化祭の発表の準備をしよう」「発表、ですか」「なーに、化学の面白さをケイモーする実験ライブをやるだけだ。ネタは俺が考えるからお前らは心配するな」
実験ショーか。ノジマ先生の普段の授業と変わらねーや。どうせ出たがりの先生が自分でやるに決まってる。俺とカゲミは無表情で無愛想な助手としてワキに立ってりゃいいんだろう。でもこれは絵として面白いような気がする。
「まずはカタチから入るのがすべてのジャンルにおけるキホンだ。そこで。お前らにプレゼントだ」。俺とカゲミはセンセから包みを手渡された。「なんすか、これ」「白衣だ」「はぁ?」「着てみろ」
俺たちは袖を通してみた。俺の白衣とカゲミのはかなり違う。白衣にも男女の区別があるんだ。初めて知ったな。
「うおっ。これは似合う。わははははははは」。ノジマ先生は白衣を着たカゲミを見て大喜びだ。当然、俺のほうは見ようともしない。
ノジマ先生は白衣のカタログを何冊もカバンから出す。「ドラマでマツユキさんが着てたヤツだぞ。苦労して選んだ甲斐があったというものだ」。なにやってんだ、このひと。
「なんすか、これ」。俺は白衣のカタログを手に取る。こんな業界があるんだ。ベンキョーになる。ぱらぱらめくってるとナースウェアのところで手が止まってしまう。カンサイやクレージュがこーゆージャンルでも仕事してるんだ、なんてことを俺の表向きの意識は考えているが、実は俺の心はナースウェアの美しさに夢中になっている。カゲミと先生も俺が開いているページを覗き込む。
「なあヒカワ、ヒャクデンパタにはやっぱナースウェアのほうがよかったかな」「白衣もいいけど、うあ、これは強力だなあ」「このアツロウタヤマのピンクはどうだ」「あーいいっすねー。でもこっちのケックスターのブルーも」「しかり。うーん、迷うな。ヒャクデンパタ、自分ではどれがいい」
カゲミはバン!とテーブルを叩いて立ち上がった。
「ジョーダンだよ、ジョーダン。なあ、ヒカワ」「え。あ、ジョーダンっつーか。ハナシ戻しましょ」
「で、部長はヒカワでヒャクデンパタが副部長だ」「え。俺が」「身長の順で決めた」「なんだそりゃ」「じゃ五十音順でいこう。ヒカワが部長、ヒャクデンパタが副部長」
俺はブルーのナースウェアを着たカゲミのことを想像していて、実のところ役職なんかどーでもよかった。
「副部長って、なにやらされるんですか」、とカゲミが聞く。「スポークスマンだ。表舞台にはヒャクデンパタが立って、ヒカワは後ろのほうで無愛想にしてる。クールで不機嫌で凄みのあるヒャクデンパタを見て、他の生徒たちは化学部はすげーなって思うだろ。副部長があれだけ凄いんだから、奥で構える無愛想な部長はもっと凄いんだろう、その上の顧問の先生なんっつったら、もうどーしよーもなく凄いひとに違いない、って考えるという図式だ」
俺とカゲミはバン!とテーブルを叩いて立ち上がった。
「ジョーダンだよ、ジョーダン。ふたりしかいないんだから肩書きが付くってだけのこった。実際には部長と副部長の任務はひとつだけだ」「なんでしょ」「ガッコにいる間は、できるだけ白衣を着ていてくれ。白衣を着て、できるだけ校内を歩き回ってくれ。それだけ」「はぁ?」
「じゃ、ベンキョー会は週2回やろう。お前ら明日にでも来月の試験日調べて申し込んでおけ」「え。先に申し込みしちゃうんですか」「とーぜんだろ。試験日が迫って初めてベンキョーしなきゃあって気分になるもんだ。じっくりベンキョーして合格する自信がついてから申し込もうなんて考えてるやつは一生受験しないで終わる」
そーかもしれないな。そんな気もする。
「じゃ、明日からベンキョーするぞ。お前らは絶対受かる。いやー部員全員が危険物取扱者の化学部なんて日本一じゃないかな。それと、任務のほうは頼んだからな」「センセ、この任務ってなんか意味あるんですか」「じきにわかる。今までお前たちが無頓着だった、もうひとつの現実が、わかる」「なにそれ」
俺たちは先生と別れガッコを出た。「リーダー、ミョーなことになったな」「そうだな、サブリーダー」「ヘンな呼び方するなよ、部長」「副部長って呼ばれたいのか」「そーいや、さ、リーダーっていまだにあたしのこと苗字で呼ぶのは、しかも、さん付けで呼ぶのはなんでかな」「他人だからだろ」「うわ、ミズくせーんだな。あたしのカラダをあんだけもてあそんでおいて」「おめー、サイテー。そこまで言われるほどのことしてねーだろ」「遊んでるヤツの基準ではそーなのか。やっぱりあたしのこと遊びだったのねぶは。ちっ。自分で言ってて吹いちまった」「ヒャクデンパタさんはなんて呼ばれたいんだ」「さん、が付かなきゃなんでもいい」「ゲミちゃん、とか」「いっぺん殴られなきゃわかんねーよーだな、リーダーは」
どっかからミーミー鳴き声が聞こえて俺たちは立ち止まる。道端に手のひらに乗ってしまいそうな子猫が捨てられていた。
「見ろよ、リーダー。ひでーな」「ああ。おめー抱き上げないのか」「連れて帰れねーもん。面倒みてやれないんなら、ヘンな期待させちゃダメだ。ひとにも、ドーブツにも」「やさしいんだな」「リアリズムに徹しているだけだ」
カゲミは子猫のそばに咲いていたオシロイバナから黒い種を取りはじめる。「応えられないことがわかってるんなら期待させちゃダメなんだ。あたしもこのネコみたいなもんだ。だからわかる。期待するほうも、もちろん悪いんだ。同罪だ。だから、さ、どっちも罪を犯さないでいられるようにしてやるのが配慮ってもんなんだろうな」
「そんなに期待したいのか」。俺は言わないでおこうかと思ったことを口にしてしまった。「そんなに自分の人生に意味が欲しいのか。そんなに夢が見たいのか。なのにどうしてお前はいつも自分の気持ちを殺そうとしてるんだ」
俺を見上げたカゲミの目はうるんでいる。「わり。余計なことを言っちまった。すまん」
俺はひとりで歩き出す。
後頭部に何か小さなものが当たるのを感じた。まただ。振り返るとカゲミがオシロイバナの種を指ではじいて俺にぶつけている。
「おめーはガキか。なにやってんだよ」「リーダー、チキンフィレ買ってマンキツ行こうか。ペアシートでキスくらいならさせてやるよ」「誰がそんな誘いに乗るかよ」「ムネまでなら触っても怒らないでおいてやる」
俺たちはチキンフィレを買いに行った。