記憶と嗅覚 作:まりえしーる 発表日: 2005/09/02 18:00

ゼミの先輩に請われるままに交際することになってしまった。昨夜は遅くまでふたりで飲み、なんとなく先輩のマンションに誘われ、なんとなく先輩と寝てしまった。

コナツと別れた傷の痛みは多少薄らいだものの心の空虚さは埋めることができず、少年はほとんどアパートに帰って来なくなったらしく夜になっても部屋に灯りが見えない。そんな孤独にさいなまれていたあたしの意識のどこかに、いつか幽霊から聞いた「まずはセックス、次に恋」というコトバが残っていたのかもしれない。たいして好きでもない先輩。でも相手から言い寄られ、それに従い、流れに身を任せてしまうことが、なんだか楽だったんだ。何も自分で考えず、相手の言いなりになることが心地よかったんだ。

でもやっぱりそれは間違いだった。先輩は避妊をしない男だった。拒絶すべきだったのに、酔っていたあたしは結局そこでも言いなりになってしまった。気が重い。

目覚めたら昼過ぎだった。隣でだらしなく眠っている先輩を見ると、してもしょうがない後悔の念が湧く。あたしはいったいなにをやっているんだろう。

服を着てベランダに出てみる。湿度はあるけれど、もうすでに風は秋のにおいがする。あたしの夏は終わったんだ。

あたしは大通りをはさんだ斜め向かいのマンションでなにかが動くのに気付く。ある部屋から男がベランダに現れた。その男はぼーっと空を見てたたずんでいる。あのひともさみしいのかな。はいぃ?

その男はなんと、少年だ。なんでこんなところに。

少年はベランダに座り込みけだるそうにしている。そして自分の頭上に干してある洗濯物に手を伸ばす。それは、ブ、ブラではありませんか。女の部屋に入り浸ってたのか。それでアパートにはいつもいないのか。

少年はサックスブルーのブラをピンチから外す。なにする気?と思って見ていると、なんと、少年はブラに顔をうずめている。

ヘ、ヘンタイ。あたしはちょっと引いた。でも、どうだろう。赤の他人の下着じゃないんだ。彼女の下着なんだよね、あれは。

家を出て行った奥さんのスリップをハンガーで掛けて、部屋に奥さんのにおいを漂わせたかったのに、奥さんは下着も全部持って行ってしまっていてがっかり、みたいな小説を読んだ記憶がある。ムラカミハルキだったかな。

少年も自分の恋人のにおいで孤独を穴埋めしようとしてるんだろうか。少年の恋人は今外出していて、少年はひとりでおるすばんをするのがつらいんだろうか。

ヘンタイかと最初は思ったけど、そう考えると、なんだ、けっこう可愛いところがあるんだね。いつ見かけてもクールな顔してるくせにさ。

なんかご主人の帰りをケナゲに待つ犬みたいだ。そっか。男ってコドモなのか。男ってコドモでバカなのか。あはは。なーんだ、もっと早く教えてくれればよかったのに。どう扱えばいいのか生まれて初めて知ったよ。今まで損しちゃったな。あたしは部屋に戻る。

「センパイ、あたし帰ります」「あ。あーなに、もう起きてたの。ふー。ちょっと待ってよ。シャワー浴びたら食事にでも」「帰ります。忙しいんで」「え。帰ることないだろ。俺たちつきあってんだから」「センパイとおつきあいするかどうかは、もうちょっと考えさせてください」「え。だって昨日」「それじゃ。お邪魔しましたー」

マンションを出ると歩道のサルスベリが満開だった。今まで気付かなかったな。

あたしは空に向かって「こらヘンタイー、ブラかぶるなー」と叫びながら歩いた。


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