人世の秘鑰 作:まりえしーる 発表日: 2005/09/01 13:00

「シヅエさんに頼まれた買い物してくるから、ちょっと待っててくれ」

ノジマ先生はクルマをコンビニのパーキングに停めた。ゴマアブラ好きのゴマアブラってのを買わなきゃと言って出て行く。後部座席の俺とカゲミは、ふたりきりになるとやっぱりキスを始めてしまう。

エリカさんといるときはセックスの雰囲気が漂っただけでふたりしてガチガチになってしまう俺と、カゲミといるときは時と場所をわきまえず情欲のとりこになってしまう俺。

どちらも、俺だ。キャラクターというものは、結局のところ、他人との関係の中で作られる。誰といっしょにいるかでキャラクターは変化してしまう。聖者は故郷では受け入れられない、とかいうハナシがあった気がする。どんな凄い教えを説いていようと、アホなガキだった頃を知ってる連中からは尊敬されない、ってことじゃなかったかな。小学校で排泄系の失態をさらした野郎は、たとえ40過ぎても当時を知る友人たちからそのアダナで呼ばれる、みたいな。センパイがセンパイらしく振舞うのはコーハイという存在があるからだ。俺が誰に見られるか分からない駐車場でカゲミの胸をもんだりしてるのは、カゲミという存在があるからだ。何故かお互いに何やってもかまわないフンイキが立ち込める関係ができあがっちまったカゲミといっしょにいるからだ。

これは俺に起きている現象の説明であって、この現象の道義的評価とはまったく別のことだ。俺が今やってることは許されないことだ。少なくとも俺のルールにおいては。

いっぽう俺と乳繰り合ってるカゲミは、こいつが取り憑かれている犬族の群れのルールを犯しているわけだ。またカゲミは俺のことを探っているフシがある。俺の高校入学当時のこととか。カゲミはあのひとのルールを犯す可能性もなくはない。

「リーダー、アタマくさかったらごめんな」「え。別ににおわねーけど。なんで。フロ入ってないとかってハナシか」「あたし、フロがダメなんだ」「なんだそりゃ」「ブショーってこったろ」「そっか」

フロがダメって表現と不精ってコトバの間に深いミゾを感じる。ちゃんと説明する気が無いってことだろう。他人に言ってもしょーがないことってのは、実際いろいろある。カゲミは自分の住処を家とは呼ばない。いつだって事務所と言う。その説明が無いのは、言ってもしょーがないよなとカゲミが考えてるからなんだろう。

俺がコーコーセーの分際で親元を離れてひとりぐらしをしてるのは、親との関係がとんでもなくまずいからだとか、俺が小中学校通してずーっと狂犬と呼ばれてたこととか、あのアパートに入ってから急速にまっとうな人間に変わっていったこととか。そんなことも他人に言ってもしょーがないよな。

他人に言ってもしょーがないことと、他人から尋ねられたくないことってのは、けっこう重なる。

俺は婚約者に知られたくないことがいっぱいある。現在もカゲミとそれを増やしているところだ。俺の罪は重い。

こんこんこん。ガラスを叩く音がする。見ると運転席のドアの外にノジマ先生が背中を向けて立っている。「センセ、どーしました」「入ってもいいかな」「センセのクルマでしょ。ご随意に」「そーだよな、俺のクルマだよな。お前らはホントひとの寝室やらクルマやら神聖な図書館とかで本能のままにまぐわいやがって」

「人聞き悪すぎ。俺たちはなんもしてませんって。今だって」「目に入ったゴミかよ。ヒャクデンパタ、お前のその愛くるしい目にはいったいいくつゴミが入ってるんだ」「え」「センセ、なにどさくさにまぎれて口説いてるんですかあ」「く、口説くだと。聖職者に向かってなんてことを。許せん。ヒカワはここで降りろ。俺はヒャクデンパタを家まで送る」「はぁ?」「あたし、駅まででいーんだけど」「レイディを家まで無事送り届けずしてなにが聖職者か。これは教師としての務めだ」「なんか知らねーけど、あとはお好きに。じゃ俺はこれで」

「ま、待てヒカワ」。クルマを降りた俺をセンセが追ってきた。「やっぱふたりだと間が持たん。お前も乗ってけ」「はぁ?」

結局センセは俺たちふたりを送ってくれた。先にカゲミの家に向かったんだが、二駅離れた街の雑居ビルが並ぶ界隈でカゲミは降りる。ホントにこのあたりに住んでるのかどーか。でも知ってもしょーがないことだろーな。「センセ、ども。今日からベンキョーします」「お前ならできる。お前は化学に愛された生徒だからな」。そんな意味不明のやりとりの後カゲミは雑踏の中に消えていった。

「ヒカワ、あいつを好きか」「え。まーどっちかって言ったら」「特別好きでもないのにくっついたり離れたり。お前らの世代のやることは俺にはわからん」

世代とかいう幻想みたいなククリでいっしょくたに語られるのは面白いもんじゃない。でもセンセの言いたいことは多少わかる。実は俺だって恋愛に命を賭けてるんだけど、それはセンセに言ってもしょーがない。ここは不毛な世代論につきあっておこう。

「あー。命賭けてやるべきこと、ってのがセンセたちとは違うってことかもしんない。レンアイは、そんな重大なことじゃないってフンイキは、あるかも」「ホントの恋愛じゃないからだ。お前らは恋愛のシミュレーションをやって時間を潰してる」「実験とか練習とか助走とか、みたいな」「助走が長すぎたらへばってジャンプできんぞ」

「センセは恋愛に命賭けるんだ。意外。恋愛と化学とどっちが大事って聞いたら、センセは絶対化学って答えるほうに20クルゼイロ」「お前の洞察力の無さは凄まじいものがあるぞ、ヒカワ。今からでも遅くない。化学者になるためにはもっと観察力を身に付けるんだ。まだ間に合う」「はぁ?」

「恋愛は人世のヒヤクなり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人世何の色味かあらむ」「なにそれ」「北村透谷だ。俺がお前に語りたいことはぜーんぶ北村透谷が書いてくれている。読め」「ヒヤクって秘密のクスリですか。さすがバケガク」「秘鑰だ。字が違う。恋ってのは人間の本質を解明するための秘密のカギだってことだ」

センセはグローブボックスを開け一冊の本を取り出した。俺に投げてよこす。北村透谷詩集。詩集ですかあ、ノジマ先生が。

「センセ、こんな本クルマに常備してあるんですか」「俺が立ち寄る場所には全部置いてあるんだ。俺の立ち返るべき場所はそこにあるんだからな」

わけわかんねー。わかんなくておもしれーや、ノジマ先生は。

俺はその夜北村透谷詩集をめくってみた。でも古文は苦手なんだよな。ところが。

「想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり」

たまたま目に入ったこの一文が、俺の心に突き刺さる。ちゃんと読んでみよう。そう思ったときエリカさんがシャワーから出てきた。俺はエリカさんに夢中になり今日考えたことをすべて忘れてしまった。


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