イン・ザ・ミドル・オブ・ア・ストリーム 作:まりえしーる 発表日: 2005/08/18 16:30

「カゲミ、これからは変装の時代だ」「はぁ?」「お前は、自分は汚れ仕事が専門だと思ってるだろう。だから身なりも汚くてかまわないってな」「え」「だがこれからは違う。お前にもいずれフレンチ食いながら商談なんて時がやってくる。そんな場面では一流の女になりきらなきゃダメだ。そんなテクを習得しろ。今から準備しとかなきゃ間に合わんぞ」

社長は何を考えているんだろう。相変わらずカゲミにはまったくわからない。

「5万やる。化粧道具一式そろえてこい」「はぁ?」「そもそも口紅一本買ってやったことがない俺が悪い。男手ひとつで育てられたお前は、女の家族から教わるべき知識が壊滅的に無い。ゼロだ」「ゼロってのは、ちょっと」「ゼロより悪いマイナスかもしれん。俺はお前に申し訳ない。だけど俺には教えてやることができない世界だ。ああ、せめて俺に女装の趣味があれば」「・・・」

「つまりは、だ。こないだみたいなメイク、なんでしないんだ。あのとき限りか。あんなに美人だったのに。なぜだ。出し惜しみしてやがるのかな、とも考えた」「なんすかそれ」「いや、出し惜しみじゃない、カゲミは自分じゃ化粧できないんだ、したくてもできねえんだってことにさっき気が付いた」「・・・。そんなこと、ずっと考えていたんですか」「そもそもやりたくてもお前には何も道具が無い。お前はガキの頃からこずかい全部刃物に替えちまいやがって。化粧品なんて買ったことは皆無だ。そうだろ」「そんなことないです」「ウソは聞きたくない」「買ったことあります。ホントです。これでも女です」「じゃあ言ってみろ。何持ってるんだ」「・・・。リップクリーム」「それだけか」「ムヒとバンドエイド」「俺は泣きたいよ。こんな娘にしちまった俺を殴れ」「できません」「じゃあ化粧品買いに行け」「どこにですか」「ああ、どこで売ってるかもわからないんだ。全部俺の責任だ。俺を刺せ」「できません」「じゃあ探して買って来い。ついでに美容部員からメイクの手ほどきも受けて来い」「え」「はい、5万円。いってらっしゃい」「い、いまからですか」「フロに入ってから行くか」「今行きます」

時刻は夜の10時をまわっていて、フツーの店はとっくに閉店していることにカゲミが気付いたのは事務所を出てからだった。ここんとこ、社長はどっかおかしい。あてもなく街をさまよいながらカゲミは考えた。なんで急にあたしに女であることを要求しだしたんだろう。社長が自分じゃ読まない少女マンガを事務所に置いとくのは、あたしに読ませようとしてたんじゃないかな。少女マンガでオトメな洗脳。確かにあたしはキャロットみき先生の作品で切ない思いに胸を焦がしちまった。そっからヘンな波が来て、今も流されてる。

まさか社長、あたしをどっかの組織の御曹司と政略結婚させようなんてことは考えてないだろーな。カゲミは社長の思考パターンのトレースを試みる。やっぱ、そんな遠謀深慮ができるわけねーや。思いつきがすべてのひとだからな。何を思いつくかは、まったく予測できないけど。

化粧、どうしよう。明日になれば社長は忘れてる可能性が高い。でも、もし覚えてたら。ケショーヒン売ってる店なんて入れないよ。泣きたい。

「タスケテクレナイカニャア」。カゲミはケータイでメールを送信する。数分後ケータイが鳴る。「はい」「おめーなにあのメール。なに考えてんだ」「リーダー、力貸してくれないかな」「金ならねーぞ」「それだけはリーダーには頼まない」「切るぞ」「リーダーのおヨメさんに、教わりたいことがあるんだ」「はぁ?」「同性の知り合いが、実はひとりもいないんだ、あたし」「恋のてほどき、とか」「バカかてめー」「なんだと」「ごめん。頼らせてくれよ。あたしを好きにしていいから」「げ。おめーついに狂ったか」「あ、ち、ちがう。そっちじゃなくて」「どっちだ」「メ、メイクのしかたを」「メイクラブしたい?」「もーいーよ。リーダーのばか」。ぴっ。

八方塞がりだ。店に行くしかないのか。買い物客がぞろぞろ歩いてる中で美容部員に顔をいじられなくちゃいけないのか。あれをあたしにやれっていうのか。

またケータイが鳴る。「ごめん。ねぼけてた。おめーがメールしてくんだから、よっぽどのことなんだろ。ちゃんと聞くから話してくれ」「かたじけない」「ゆってみ」「お、お化粧のしかたを、教えてください」「え。お、俺が化粧したのなんで知ってんだ」「はぁ?」「でも俺は教えられないぞ。オモチャにされただけだ、おめーといっしょだ」「だからぁ、リーダーの婚約者に、って言ってるだろ」「あ、そっか。そーだよな」

リーダーもやられてたのか。あはは、情けない野郎だな。「じゃあ明日にでもってことでどーだ」「ありがと。この借りは必ず」「好きなようにされてもいーんだな」「え。うん。ハラ決めた。リーダーになら抱かれてもいい」「ば、ばか、エリカさんに好き放題メイクされてもいいんだなって意味だ」「ふたりそろって、あたしを自由にしていいよ」「おめーには呆れる。じゃ明日放課後な」「リーダーありがと。ホントに助かったよ」

カゲミは肩の荷が降りた気分になる。ふう。でもこんな些細なことで、あたしはなんで深刻に悩んじまうんだろう。みんなが平気でやってることなのに。

カゲミは事務所への道を歩く。店閉まってたんで明日、って言い訳ができる。よかった。あ、明日はガッコ行く前にシャワー浴びとかなきゃまずいよなあ、やっぱ。あーあ、あたしの人生って試練の連続じゃありませんか。リーダーで遊ぶくらいしか気晴らしが無いや。


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