犬の王 作:まりえしーる 発表日: 2005/08/04 15:00

朝の通学電車の中でカゲミは一冊の本をカバンから取り出す。キャロットみきの新作コミック「ひとみしりカルナバル」。事務所に置いてあったのをなんとなく持ってきていた。社長はなんで少女マンガをしょっちゅう買ってくるんだろう。社長自身が読んでるのを見たことがない。よくこんな表紙の本をレジに持っていけるもんだなあ。そう思いながらカゲミはコミックを読み始める。このひとの本はいつでも同じだ。登場人物が全員片思い。ワンパターンで、だけど切なくて、面白い。うわあ、凄い出会い方だな。あーあ、現実にはこんなことあるはずないじゃん。だからマンガは売れるんだろう。

ガッコに着いて下駄箱を開けると1枚の紙が目に入った。「放課後体育館のウラにこい」。カゲミは目を手で押さえる。

ここまでアタマの悪いやつらとは思わなかった。現実は悲惨だ。

せめてひとけの無いビルの地下駐車場に誘い込むとかしてくれ。こんな低レベルな世界に足を突っ込んでいいもんだろうか。低レベルといえば、昨日のあたしは軽率だった。集金の後だったのに男ふたり襲ってサイフを盗むなんて。大金かかえてるときにやることじゃあない。授業中にカゲミは昨日の自分を反省している。

なんか暴れたくなったんだよ。あの女とリーダーがじゃれてるのを見せつけられたら。

カゲミは頬杖をつき左後方の席に目をやる。一番後ろの列の窓際。そこには昨日背の高い女にヘッドロックをかけられていた男子が座っている。昨日は笑ってたな。すげー楽しそうだった。あんなふうに笑う男だったんだ。

その男子は教科書を見る姿勢で眠っている。寝不足かよ。寝不足のワケを邪推しちまうから寝ないでくんないかな。

カゲミはその男子をぼーっと眺めている。カゲミのすぐ左後ろの席の男子が真っ赤になって固まっていることにカゲミは気付かない。

「おいヒャクデンパタ、お前授業中に何に見とれてるんだ」と教壇からノジマ先生が声をかける。

「あ、座高の高いひとが寝てるなあって思って」

クラスに笑いが起こり、居眠りしていた男子が目を覚ます。ノジマ先生が睨む。

「よしヒカワ、以上のことを踏まえて、濃硝酸に銅を加えるとどうなるか答えろ」「はあ。二酸化窒素が発生しまふ」

なりゆきを見守っていたクラスに拍手が起きる。「おまえは、神か」とノジマ先生は呆れた。

すべての授業が終わる。さて、どーすっかな。あのバカトリオ、バットとか持ってそうだな。バカだから。目撃者がいそうならイッパツくらっておこう。正当防衛のレベルで病院送りにしてやる。誰も見てなければ、親にもケーサツにも話せないくらい怯えさせてやればいいか。左手のツメ全部はがすくらいでやめとこうかな。次は右手だよっ、てなカンジで。

カゲミは教室を出る。下駄箱の手紙を回収して体育館のウラに向かう。ラブレターはひとり一回にしてれないかな。ダブリが多くて入力しててイラつくんだ。思い出したらなんだかだんだん不機嫌になってきたな。イッパツくらうなんてバカくせー。なに考えてたんだ、あたし。刻んで終わりにすればいいだけのことだ。

体育館のウラには昨日の150cmトリオが待っていた。「ホントに来たんだ。ドキョーあんだな」と中央の女が言う。「命知らず、てゆーかバカ?」

マスク持ってくりゃよかったな、とカゲミは思う。バカのニオイがきつくて、さ。カゲミのポケットに入れた右手はナイフを握っている。

そのとき、突然カゲミは背後から誰かにのしかかられて驚く。他にもいたのか。気配がなかったのに。がん、という音がしてバケツが地面に転がる。なんだこりゃ。カゲミは振り返って自分の肩の上を見上げる。

「リーダー。なんでここに」「よお」。授業中カゲミが眺めていた男の無愛想な顔がそこにあった。その顔のさらに向こうで、体育館の2階の窓から女が身を引っ込めるのが見えた。誰かがカゲミを狙ってバケツを投げ、男がその攻撃から自分を守ってくれたらしい、とカゲミは考えた。

男は左手から血を流している。バケツを殴ったようだ。「おめーら、聞いとけ。こいつは俺のクラスメートだ。おめーらは俺のコーハイだ。ここは俺たちのガッコだ。ここは俺たちの街だ。俺がなにしゃべってるのかわかるな」とリーダーと呼ばれた男はカゲミの肩を抱いたままトリオに話しかける。

カゲミは、少なくともあたしにはなんだかわかんねーな、と思う。でもトリオはうつむいて神妙に聞いている。

「わかるな」「・・・」「わかるな」「はい、センパイ」「上にいるヤツ呼べ」「はい」

トリオのひとりがケータイで話し始める。しばらくしてカゲミが見たことのない女子が体育館から現れる。

「お前らなにをしなきゃいけないのかわかってるな」「はい」。トリオ・プラス・ワンはカゲミに向かって土下座をした。「すいませんでしたっ。もう二度としませんっ。許してくださいっ」

「お前の番だ」と男がカゲミに言う。「え。あ、ああ。許す」「ありがとうございますっ」

「おめーら、もう行け」「センパイ、手、だいじょうぶですか」「ああ。行け」「失礼します」。4人組は去っていった。

「なんなんだよ、今の儀式は」。ふたりきりになってから、カゲミが男に言う。

「え。んー、上下関係ってやつじゃねえの」「とぼけんなよ。ジンジョーじゃねえもの見せられた。わけわかんねー。ヤツらは何にびびったんだ。そもそもリーダーはなんでここに来たんだよ」「おめーが舌なめずりして出てくのを見た。ヤな予感がして追っかけてきた。そんだけ」

「あ、そんなことより」。カゲミは男の左腕をつかみ、手の甲の傷を舐める。「いいって」「よくない。あたしのせいだ」「そこまでするなよ」「させてくれなきゃいやだ」

しばらくカゲミは傷を舐め続け、やがて血は止まった。カゲミはカバンの中をかきまわす。「あった。バンソーコー」「そんなもの携行してるってのは衝撃的だな」「備えあればうれしい、って言うだろ」「言うかな」

カゲミが男の手にバンソーコーを貼っている間、男はカゲミのカバンからはみ出したものを見ている。「キャロット、みき」

カゲミは真っ赤になった。「見るなよ、女の子のバッグの中を。サイテーだな」「俺も読んだよ、それ」「え」「婚約者が好きでさ。読んだらすげー面白かった」「そっか。ふうん。あのさ、じっ、自分で買ったんじゃないからな、あたしは」。男は笑う。

「ところでさ、傷を舐めるのって、衛生学的になんか意味あんのかな」と男が聞く。

「舐めるひとの愛情が患者に伝わることによって、メンエキリョクやシゼンチユリョクがツヨマることが期待できます」「テキトーなウソつくんじゃねーよ」「ウソじゃねーよ」「確かに血は止まったけどな」「だろ」

「どっかでメシ食ってくか」と男が聞く。「婚約者が待ってんじゃないのか」「今夜はいいんだ」

ふたりはいつものように不機嫌そうな顔で並んで歩く。「チキンフィレサンドが食べたい」「つきあおう」。カゲミはちょっと楽しい。でもリーダーはただの寝不足のビンボー人じゃなさそうだ。甘く見すぎてたかも。


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