潮風 作:まりえしーる 発表日: 2005/08/02 17:30

「バランス崩してヨットが横転しちゃったらどーしますか」「ディンギークラスならひとりでも起こせるんだ。ヨットってのはチンする前提で設計されてっからよ」「へえ」「カンタンなことだ。ちょいとチカラを加えればヨットが勝手に起き上がる」

俺は今、お台場の潮風公園の芝生の上でドレッドのひととヨットのハナシをしている。なんでこんなトコに男ふたりでいるのか。

先日ドレッドのひと、エメさん、エリカさんと俺の4人でバリ料理を食べに行ったときのことだ。こないだの隅田川花火大会でヒトゴミ地獄に懲りたドレッドのひとが、次の東京湾花火大会はオトナのヨユーで薄ぼんやりと眺めたいと言い出した。俺とエリカさんはスミダガワの話題が苦手なので、目の前のナシゴレンやミゴレンを黙々と食べる演技に専念するが、もちろん味なんかさっぱりわからない。

「こら少年、ハナシ聞け。いいか。花火会場からはちょいと遠いが絶対すいてる潮風公園で小粋に花火鑑賞だ。む、まさか貴様らまたしてもイカガワシイ計画を練っているんじゃねーだろーな」

てなわけで東京湾花火大会鑑賞のため、俺たちは潮風公園に来ることになった。ところが昨日突然エリカさんに「あたしとエメはちょっと用事済ませてから行くからさ、ヒカワくんはアキヒロくんと先に行っててね」と言われた。ドレッドのひとも同じ話をエメさんにされて、今おれたちは男ふたりでここにいるわけだ。

確かにこの公園はすいている。芝生に寝そべって見る花火も悪くない。花火スタートまであと30分というところでドレッドのひとのケータイが鳴った。

「もしもし。なに、レインボーブリッジを凝視しろ?なんだそら。オーケイ、その通りにする。少年、指令だ。あっち向けとよ。で、絶対目を離すな」「はぁ?」「エメとエリカからの命令だ。お前、逆らう度胸あるのか」「め、めっそうもねえですだ」

俺たちはわけもわからずレインボーブリッジ方向を眺める。ドレッドのひとはケータイからの指示をリピートして俺に伝えてくれる。「そのまま。そのまま。そのまま」

ドレッドのひとの声と同じフレーズが、俺たちの背後から近づいてくる。「そのまま。そのまま。そのまま」

俺たちのすぐ後ろで声の主は歩みを止めた。「お待たせ。さあ、こっち向いていいよ」

俺たちはターンした。そして唖然とした。

ユカタ。

な、なんとそこにはユカタを来たエリカさんとエメさんが立っていた。

「すげえ」。俺は息を呑んだ。「すげー。ユカタだー。ホントにすげー」。俺にはエリカさんしか見えない。ドレッドのひととエメさんも何かカンドー的な会話をしてたんだろうけど、俺にはまったく見えないし聞こえない。

「エリカさん、ものすっごくきれいだ。うわあ、これはすげー」「あはは、もっとよく見せてあげる」。エリカさんはターンしてくれた。まいったな、これは。降参です。

ユカタには魔力がある。俺の脳髄をまっぷたつに引き裂くパワーがある。その妖しさの正体が知りたい。その魅力の秘密を解明したい。エリカさんに貼りついた自分の視線をひっぱがすことができない。俺はエリカさんと出会ってからずっと、美の姿に打ちのめされているばかりだ。美とはなんなんだろう。わからない。わからないけど、俺は美のために滅んでいく種族なんだ、と思う。俺の血が死ねと言う。俺の血が、彼女のために死ねと言う。それはいつですか。教えてください。俺は必ず従いますから、そのときが来たら教えてください。

俺たちはふたりのお姫様のためにビニールシートを広げ飲み物やつまみを並べる。もしエリカさんに東京湾のアナゴが食べたいと言われたら、俺は迷わず海にダイブする。ユカタ姿のエリカさんのためなら俺の命なんて安いもんだ。

花火大会が始まり、俺たちは芝生の上でだらだら過ごした。俺はエリカさんばかり見ていた。ふたりきりになりたい。花火を見ながら「早く終わってくれ」と願ったのは初めてのことだった。


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