レット・ザ・ウィンド・ブロウ、タイマー 作:まりえしーる 発表日: 2005/07/22 10:00


「カゲミ、今日という今日は許さん。フロに入れ」

「お願いです、フロだけはかんべんしてください」。カゲミは社長の前に正座させられている。「だめだ、入れ」「何でもやりますから許してください。社長のために一生働きます。お願いします」「だめだ、フロに入らないんなら出て行け」

カゲミは大粒の涙を流して泣きじゃくる。「ここを追い出されたら、あたしには、もう、行くところがありません。捨てないで、ください」

「だったらフロに入れ」「それだけは、許してください」「泣いてもムダだ」

異様な光景に気付き、事務所の連中が集まってくる。「普段は平気で他人の指を折ったりしてるカゲミがこんな泣くなんて。カゲミ、なんでそんなにフロがイヤなんだ」

「こいつはなあ」と社長が言い始め、カゲミはうろたえる。「しゃ、社長、言わないで、言っちゃいやです」

「こいつはなあ、実の両親に水張ったフロにアタマ沈められて殺されかけたんだよ」

「言わないで」

「俺があの時止めなかったら、こいつはこの世にいないんだよ」

「言わないで」

「こいつはなあ、実の両親に水張ったフロにアタマ沈められて殺されかけたんだよ」

言わないで言わないで言わないで言わないで言わないで言わないで思い出させないで。

ここでカゲミは目を覚ます。全身が汗で濡れている。夢、か。カラダの震えがおさまらない。

夢だったんだ。

カゲミは事務所の床でヒザを抱えて泣く。

カゲミは個室でひとりで眠ることができない。ひとの出入りがある場所、誰かの気配がある場所、常に誰かに見られている場所でないと眠れない。できれば徹夜で働いて、昼間みんながいる事務所の床で眠りたい、それがカゲミの望みだ。社長、徹夜仕事をまわしてください。でも社長は高校を出なけりゃいけないという。昼間はガッコに行けという。

夜、誰かが事務所にいる間に寝付けなければ、カゲミはもう眠ることができない。夜の街へ狩りに出かけるしかない。みんなが眠ってしまう夜が、カゲミは嫌いだった。お願いだからあたしより先に眠らないで。もし社長に追い出されたらどうしよう。ひとりで部屋を借りて生きることはあたしには不可能だ。勤務時間中にオフィスの床で眠れる仕事なんてあるはずがない。社長、あたしを捨てないで。

こんなに汗かいちゃったらシャワーを浴びないといけない。今はもうシャワーは自分で浴びられるんだ。バスタブには絶対入れないけど。以前は浴室に入る前に胃の中をからっぽにしておかないと不安だった。浴室に入ると吐き気がするから。でも今はそんなことしなくてもシャワーが浴びられるようになった。もうコドモじゃないんだ。

ガッコに行く前にシャワーを浴びよう。カゲミはそう決心した。でもあんな夢の後だからと、まずトイレに行って吐いておくことにした。

またこれがクセになったりしませんように。

遅刻せずに学校に着いたが、カゲミは教室を素通りして屋上に向かう。屋上が好きだ。どっかからひとの声が聞こえるし。手すりにもたれ、ぼうっと遠くを眺める。コヨーテになりたい。空が青い。風がほしい。コヨーテになりたい。

風よ、吹け。

カゲミの頭の中でローラ・ニーロの歌声が流れ始める。

だから風を吹かせてよ、タイマー
風を吹かせて、あたしは風の歌が好き
たとえ悲しい歌でもかまわない
タイマーはあたしがまた恋に落ちるって知ってる
タイマーはもう二度とあたしは夜の街をさまようことは無いって言ってくれる
もしあの男が本当にあたしを愛してくれるなら

そのときカゲミは誰かが屋上に上がってくる気配を感じ、あわてて涙を拭く。誰かが近寄ってくる。足音で、というよりも、その足音の静かさとリズムで、振り返らなくてもカゲミには誰だかわかる。その足音は自分の群れのものだから。

「うす」と声をかけられ、カゲミは振り返らずに「おはよう」と答える。

足音の主は、紙袋を破り床にタコスを並べる。「仕送りがきたもんで、12個も買っちまった。ヒマだったらチカラ貸してくれねーかな」

カゲミはもう一度目をぬぐってから振り返る。「なんでいろんな種類買うんだよ。全部同じものにしろよ」

「フツーいろいろ買うだろ」「好きなものの取り合いになる。トラブルの元だろ。刺されるぞ。よく聞く話だ」「おめーシビアに世の中見すぎ」「そっかな」「ま、先に好きなの全部取れ」

「ね、チキン入ってるヤツは、全部もらってもいい?」「もちろんですとも、おじょうさま」「もらいっ」

カゲミは自分が笑顔になっているのに気付く。あたしはまだ笑えるんだ。

チリの味が心に沁みる。「辛くてナミダ出そうだ、あたし」「好きなだけ流せよ」「泣かせるなよバカ」

足音の主はカゲミの髪をなでる。理由も聞かずになでてくれてありがとう。やっぱシャワー浴びてきてよかったかも。


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