送り狼 作:まりえしーる 発表日: 2005/07/12(Tue) 10:30


「フジノ、ごめん。あたし結婚したの。だから今までみたいなつきあいはもうできない」

コナツに突然そう切り出されて、あたしは唖然とした。一部始終をを聞いて、開いた口が閉じられない。なんでそうなるの。こともあろうにコナツ自身が駅のホームで逮捕した服役中の男が結婚の相手とは。当然獄中結婚だ。

どうして、と尋ねたい気持ちでいっぱいだ。でも。コナツはほとんど同じような犯罪現場に2度も居合わせ、2度も犯人を投げ、重大な犯罪を引き起こす可能性があった人物とはいえ、ひとりを死なせ、もうひとりをあやうく死なせそうになった、そんな途方も無い経験をしている女だ。そんなコナツに平凡な日々を送っているあたしが何を言えるだろう。あたしはコナツの心の闇の深さを思い知らされた。

コナツは何度も刑務所に手紙を送っていたんだそうだ。そして先日、とうとうコナツは弁護士を通じて服役中の男に婚姻届を渡し、男はそれに合意した、という。ふたりの名前が並んだ婚姻届を今日提出してきた、という。

「そう。そうだったの」「フジノ、ごめんね」「ううん。いいの。幸せになってね」「ありがとう」

コナツは帰った。もっとも隣の部屋へ、なんだけど。別れの場面の後、あたしの元恋人が去っていく道のりは、たったの数歩だ。

2度目の事件にでくわす前から、もうすでにコナツはあたしから離れはじめていたのかもしれない。ベージュの下着しか持っていなかったのに、突然サックス・ブルーの下着を買ってきたり、ネールチップをつけ始めたり。あんな事件が無くても、あたしは捨てられる運命だったのか。

あたしは捨てられた。コナツを恨んではいないけど、やっぱり自分がみじめだ。

しばらく部屋で泣いてから、あたしは外出した。あたしは街をさまよい、数時間後には両手一杯に荷物をさげていた。ひと気の無い路地に入ったあたしは、曲がり角で誰かとぶつかってしまう。よろけたあたしは荷物を落とす。そこではっと我に帰ったあたしは、ぶつかった相手がコナツのお兄さんだと気付く。コナツの兄、ヨシカワさんは路上に散らばったあたしの荷物を見て固まっている。

夏なのに灯油が入ったポリタンク、出刃包丁、固形燃料、安全カミソリ、ロープ。

あたし自身も足元に落ちたそれらを背筋が凍る思いで見つめる。「ご、ごめんなさい」。ヨシカワさんはそう言って荷物を拾い集めた。そして動けないでいるあたしの背中を支えて歩かせ、近くの公園のベンチに座らせた。

「僕はずっと妹を見てきましたから、あなたの考えていることが少しはわかります」

そうですか。自分の考えていたことがよくわかっていないあたしはそう答える。ヨシカワさんはあたしの肩を抱いてくれる。ひとの体温がうれしくて、あたしは泣いてしまう。

「落ち着いて。大丈夫ですよ。落ち着いて、もう一度ゆっくり考えればいいんです」

あたしはヨシカワさんに寄りかかる。「こんなところを見せてごめんなさい。でも、もう少しだけこうしていてもいいですか」「いつまででもいいんですよ。朝までこうしていてもかまいません」「ありがとう」

こんなふうに誰かに支えてもらえるのって、なんて幸せなことなんだろう。あたしはもうこの流れに身を任せてしまいたくなってくる。もう考えるのをやめて楽になってしまいたい。このひとにすべてを任せてしまいたい。あたしはヨシカワさんに顔を向け目を閉じる。ヨシカワさんも応えてくれるようだ。

その時、何かの気配を感じあたしは目を開いた。目を閉じ唇をとがらせているヨシカワさんの顔の向こう、公園の前の通りを歩く長身の影。少年だ。

少年はあたしたちには何の関心も示さず淡々と通り過ぎていく。風に髪をなびかせて。その気高い姿にあたしの心は震える。少年はいつもプライドと孤独を感じさせる。まるで野生動物みたいだ、とあたしは思う。あたしのカラダに電気が走る。

あたしは今、ものすごくかっこわるい。なにやってるんだ、フジノ。今のお前は最低だ。

あたしはベンチから立ち上がった。ヨシカワさんが驚いて目を開ける。「ごめんなさいっ」。あたしは公園を出る。「あ、こ、この荷物は?」「さしあげます」

道に出ると少年が向こうの角を曲がるのが見える。追いかける。また、向こうの角を曲がるのが見える。追いかける。

送り狼だ。あたしはそう思う。「送り狼」って今は悪い意味で使われてる言葉だけど、もともとは山奥で道に迷った人間を、狼が人里まで誘導してくれるという不思議な現象から生まれた言葉だって本で読んだことがある。少年は今あたしに道を示してくれている。

次の角を曲がると、少年の姿が見えない。どっちに行ったの。少し歩くと住宅にはさまれた空き地にしゃがみこんで地面を見ている少年を見つけた。

あたしは思い切ってそばに行き後ろ姿に声をかける。「こんにちは」。振り返ってあたしを見上げた少年はヘッドフォンをはずす。こんなことをしてくれるのは初めてだ。勇気が湧いたあたしはもう一度言う。「こんにちは」「あ、どーも」「なに見てるんですか」「あ、この花っす」

あたしは少年の隣にしゃがむ。少年のコロンが香る。いいにおい。そして少年が指差す先を見る。

「うわあ、きれいね」「サギソウの花。こんな場所に自生するのは、すげー珍しい」

その白い不思議なカタチをした花は、本当に鷺のようだ。「きれいね。ね、この花どれくらい咲いてるの?明日も見られるのかな?」「ああ、今日限りですね」「なんで?」「誰かが見つけて持って帰っちゃうだろうから」「そんなぁ、ひどいな」「そんなもんです」

そんなもんか。でも見れてよかった。

そのとき少年のお腹が鳴った。少年は顔を赤くする。「あたし、これから夕食なんだけどいっしょに食べに行かない?」「あ、いや」。そっか、この子、お金ないんだよね。

「ごちそうするからさ。花のこと教えてくれたお礼に」「それはできません」「ふふ、もしかしてすっごいモノ想像してない?牛丼屋だから安心してよ」「でも」「ええい、わかいもんが遠慮ばっかしてどーする。大盛りまでならオッケーだからね。さ、行きましょ」

あたしは野生の狼を連れて街を歩く。「キミ、香水なにつけてるの」「ジャスト・フリー」。あはは、そのまんまだね。キミ。似合いすぎだよ。

孤高の狼は大盛り豚丼を数分間でたいらげた。あたしは店に置き去りにされるのが怖くて、猫舌なのにがんばって食べ、案の定口の中をヤケドした。


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