星の海を遠く 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/28(Tue) 08:57


「じゃソフトドリンクのひと、オーダー取りまーす。ヒカワ少年は今日もウーロン茶でいい?」「あ、あたしも」。エリカさんが手を上げた。全員がフリーズする。

「え、なに?あたしヘンなこと言った?」

今日は今年最初の真夏日になった。暑い。あんまり暑いんで練習の後「ビール飲みてえ」とみんなが言い出し、今俺たちは居酒屋にいる。「エリカ、どうしちゃったの?」「あ、昨日飲み過ぎたみたいで二日酔いが、ちょっとね。今日は休肝日ってやつ」「なーんだ」「心配しちゃったよ」。そんな会話の中、ドレッドのひととエメさんが俺の顔をのぞきこむ。知らないって。俺にはエリカさんの事情なんてわかんないって。

ところで、エリカさんが酔っ払わないってことは、俺が送っていく必要も無くなっちゃうってことなんだろうか。

アルコールフリーでもエリカさんはエリカさんだ。常に話題の中心で場を盛り上げる。飲み会での俺は、新入りで最年少で未成年で高校生だから隅っこのほうでウーロン茶を飲んでおとなしくしてる。大体は下戸のドレッドのひとやエメさんと話をしてる。高校生のボーヤの生態に関心を持つ女性メンバーがたまにやってくる、そんな過ごし方だ。今日もドレッドのひとと、その彼女であるエメさんが俺をかまってくれてる。

「やっぱ夏は海だよな。少年、ヨット乗りたくねーか」「ヨット。いいっすね。俺、乗ったことはおろか見たこともないし」「よし決まった。夏休みに俺んちの別荘に行こう。俺のヨットに乗せてやる」「べ、別荘あ〜んどヨットを所有ですかぁ?アキヒロさんってゴシソクってやつだったんすか。ショーゲキ」「お前、まずその絵を消せ。お前のアタマん中のその水上コテージと豪華クルーザーってイメージを消せ。別荘ってのは昔バブルの時代にオヤジがだまされて買ったちっこい民家だ。ヨットは俺がひとりで扱える程度の4人乗ればマンパイの小型ヨットだ。ディンギーってヤツだ。わかったか」「でもヨットの操縦できるひとっていったら俺には豪族とか財閥のゴシソクとしか考えられないっすよ」「ばーか、オークランドじゃ誰でもできるんだよ」「オークランド?バック・トゥ・オークランド?オークランド・ストローク?アキヒロさんはアメリカにいたんすか?」「てめー、オークランドっつったらニュージーランドだよ、ニュージーランド。なんでみんなニュージーランドのことを知らねえんだ。知れ」「はあ、すいません」

「俺は少年時代をニュージーランドのオークランドで過ごしたんだ。オークランドってのはな、住民のヨット所有率が世界一なんだ。自転車の乗り方覚えるみたいに、ヨットの操縦を習うのが当たり前の街なんだ。別名シティ・オブ・セイルズって呼ばれるヨットの街さ。次のアメリカス・カップの開催地でもある」

シティ・オブ・セイルズだって。かっけー。青い海、青い空、でっかい橋、白いビル街、ハーバーを埋め尽くすセイルの群れ。そんなイメージが俺の脳内で展開される。いいなあ。ホントはサンフランシスコの風景にセイルの群れを合成しただけなんだけど。

「かっこいい。ヨットに乗りたいってショードーが湧いてきました。俺、海の男になります」「じゃ決まりだ。夏休みに4人で別荘行くぞ」「4人?」「なに言ってんだ。俺とエメ、お前とエリカだ」「え」。ありえねー。

エメさんが俺を見て笑っている。エメさんとエリカさんは仲良しだ。水面下で何が進行してるのかわかったもんじゃない。俺の人生っていつも誰かの思惑に巻き込まれてるばっかだ。俺って漂流してるだけじゃん。自分のアイディアで、自分の意思で、びっと行動するオトナの男になれる日がくるんだろうか。

「渋く盛り上がってるよーね」。みんなが酔っ払って座がダレてきた頃、エリカさんがグラスを持って俺たちの席に来た。「エリカ、ずっとウーロン茶なんだね。ノンアルコールのエリカなんて初めて見た。二日酔いなんてウソでしょ。ホントは何があったんだか教えなさいよ」とエメさんが言う。「あー、実はさ、こないだ酔っぱらって、あるひとを泣かしちゃったんだ」「なにそれ」

「酔ったあたしの醜態を見て、情けなくて泣いたひとがいるの。それ見てあたし、すっごく自分が恥ずかしくなっちゃってさ。もうそんなことは二度としないようにしようかなって。へへ。ま、そんなことはともかく、ジョイスのライブいつ行く?行くでしょ?」

俺はそのとき手羽先をかじってたんだけど、もしそれが新聞紙でも気付かなかったと思う。

飲み会が終わって2次会に行く連中とかが去って行くと、なんとなく自然な流れで俺はエリカさんとふたりになっている。不思議といえば不思議。

「ヒカワくんはあたしが酔ってないのに送ってくれるんだ」「ある事情で俺はエリカさんをひとりで夜道歩かせるわけにはいかないんです」「あはは、なにそれ」。エリカさんは笑いながら腕を組んでくれる。「守ってくれるナイトがいる生活ってのは初めてだな」

夜になっても気温はあまり下がらない。もうすぐ熱帯夜連続記録を更新するぞという意気込みで猛暑がやって来る。

「エリカさんはあの日俺が泣いたのわかってたんだ」「うん。びっくりした。自分が惨めで恥ずかしくなった。その場で反省して失点を取り返したかったんだけど、あの日は飲み過ぎててムリだった。その後のことはよく覚えてないし」「フツーでした。エリカさんはいつものように水一杯飲んで寝ました」「そう。そうね、きっと」

エリカさんのマンションに着いた。「じゃあ俺はこれで」が言い出せないでいると、「暑いね。実はすっごくビール飲みたいんだ、あたし。もうガマンの限界。家で飲むのは別にいいよね?ヒカワくん、ひとりで飲むの寂しいからつきあってよ」と誘われてしまう。俺はそれを待っていたのか。施しを待っているのか、俺は、いつも。

エリカさんは冷蔵庫から缶ビールを2本持ってくる。「飲むでしょ?」「いただきます」。ぐびぐびぐび。うめー。やっぱ夏はこれだわ。すっげーうめー。俺たちは顔を見合わせて笑ってしまう。

ジョイスのニューアルバムが流れている。アルコールとドリ・カイミのあったかい歌声に包まれた俺は、たった今この場で自分が溶けてなくなってしまえばいいと思う。俺はもう十分生きた。消えてしまいたい。今ここで死にたい。誰か殺してください。この卑劣な裏切り者を殺してください。

「そーだ。面白いモノがあるよ。ね、ヒカワくん。照明消して」と言いながらエリカさんは丸っこい機械を引っ張り出した。

首をひねりながら俺は席を立った。壁の照明スイッチを切り、闇が訪れた次の瞬間、俺たちは満天の星空の下にいた。

宇宙が俺の手を伸ばせば届きそうなところに広がっている。無限が、永遠が、そこにある。

「ホーム・プラネタリウムだよ。買っちゃった」「すごい。すっげーきれいだ。エリカさんみたいにきれいだ」

醒めた目で見れば、天井や壁や家具に星が投影されてるだけのことだ。でも今の俺には強烈な光景だった。俺は魅了され、タマシイを奪われた。

俺はソファにのけぞって座り、星たちのダンスに見惚れる。エリカさんは俺に寄り添ってきて、頭を俺の肩に乗せる。

「エリカさん、俺は今日はなにもしないよ。今日はなにもしないって決めたんだ」
「あたしはこうしてるだけでしあわせ」

流星の雨が俺たちの上に容赦なく降り注ぐ。ふたりで星の海を漂流してるみたいだ。俺たちはスターダストなのか。俺たちはゴールドなのか。俺たちはビリオン・イヤー・オールド・カーボンなのか。切なさで俺の胸は裂ける。「宇宙酔い」ってこんな気分をいうんだろうか。そんなわけねーな。

「エリカさん」「はい」「俺と結婚してください」「はい。あなたについていきます」

こんなのって。俺は死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ。


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