アフター・ユーブ・ゴーン 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/29(Wed)


誰かが俺の髪をなでている。目を開かなくても俺にはその手の持ち主がわかる。アズサさんだ。懐かしい。なんでこんなに心が安らぐんだろう。

俺は今エリカさんの部屋にいる。昨日エリカさんとビール飲んで最新のホーム・プラネタリウムに夢中になってビール飲んで感情の嵐に飲み込まれてビール飲んでわけわかんなくなってそれでもビール飲んで、そのままソファで眠っちゃったんだ。エリカさんは俺に寄りかかって寝ている。おかげで俺の右腕はひどく痺れている。でもエリカさんのためなら腕の一本くらいどーなってもいい。そうだ。眠る前に俺たちには人生の転機ともいうべき大事件があったことを思い出す。

目を開くとアズサさんが微笑んでいる。「アズサさん、ごめんなさい。俺はアズサさんを裏切りました」「なに大げさなこと言ってるの」「アズサさんというひとがいながら、俺はエリカさんを好きになってしまいました」「うん」「しかも、俺はエリカさんにプロポーズまでしてしまいました」「うん。それでどうだった?」「受けていただきました」「そう。おめでとう、ヒカワくん。よかったね」「ごめんなさい」

「どうしてあやまるのかな、キミは」「だって、俺は…」「あやまることなんてないのよ」「だって、俺は、浮気はダメだと知ってて、アズサさんが傷つくと知ってて、こんなことを」

「キミは浮気な気持ちで、その娘にプロポーズしたのかな?」「え。そ、そうじゃない。すっげー悩んで迷って、それでも自分の気持ちが抑えられなくて、俺は」

「だったら、それは本気というんだよ、ヒカワくん」「本気?」「自分でわかってるんでしょ。キミはキミの意志でその娘を選んだんだよ。それは浮気なんかじゃないの」

アズサさんは何を言おうとしてるんだろう。

「あたしが言いたかったことはね、ヒカワくん、キミの意志であたしを捨てなさい、キミの意志でその娘を本気で愛しなさい、大切に守ってあげなさい、ってことだったのよ」「え…」

「前にも言ったでしょ。あたしはもう死んでるの。絶対それを忘れちゃだめだって。あたしとくっついていたらキミに未来は無い」

「そんなことない」「あるの。ヒカワくんは凄くやさしい。あたしはキミのやさしさに甘えて、キミをずっと支配して自分の傷を癒してた。あたしの心が過去から自由になれたのは、ヒカワくんがあたしを好きだって言ってくれたあの日からなんだ。あたしは恋に夢中になって、生きてたころ一度も持てなかった時間を取り返すことができた。あたしの飢えた心を満たしてくれたヒカワくんにはどれだけお礼を言っても足りないくらいなのよ」

「そんな…」「でもね、あたしは甘えすぎたの。キミはキミの人生を生きなくちゃいけない。あたしが泣こうが狂おうが、キミはあたしを捨てて広い世界に飛び出していかなくちゃいけない」

「そんな」
「なんで泣くの。キミは今幸せをつかもうとしているんだから泣いたらおかしいよ」
「だって、なんでそんな、お別れみたいなことを言うのさ」

「あたしは仁義を尊重するの。この娘の部屋にはもう二度と来ないし、ヒカワくんとは二度とセックスはしない。これはあたしにとっては物凄く重大な決意なんで、オモオモしく言ってみました」「え。永遠の別れとか、そーゆーんじゃないんだよね」「うん。しょっちゅうってのはマズいだろーけど、会えるよ。でもできるだけその娘といっしょにいてあげなきゃだめ」

「アズサさん、どこにも行かないよね、会えるんだよね、これからも」「うん。なんか嬉しそうだね」「そりゃそうだよ。なにわかりきったこと言ってるんだよ。おどかさないでよ、まったく」

緊張から解放されて、俺はしばらく泣いた。

「でもセックスはダメよ。もうしないからね」「キスは」「キス。キスかあ。うーん微妙だな。キスくらいはいいんじゃないかなあ。いいような気がする。でもその娘は嫌がるかなあ。ヒカワくんはどう思う?」「キスはアリでしょう、たぶん」「挨拶程度のキスと情熱的なキスのボーダーって曖昧ね」「挨拶に情熱こめるってのもフツーじゃないかな」「ああ、それは否定しにくいなあ。じゃあキスくらいは、たまになら、いいか」

俺たちはエリカさんを起こさないように気を使いながらキスした。

「ちなみにヒカワくん、もうすぐガッコに行かなきゃいけない時刻なんだけど、今のキミは大変酒臭いね」「え」「今日は休みなさい。そして彼女が起きたら、アルコール抜きの状態でもう一度ちゃんと自分の気持ちを伝えること。わかった?あ、今日は帰りにリンゴ買って来てね。じゃ」

アズサさんは天井に輝く星空の中に消えた。こんなのって。昨日までの俺のあの葛藤は、胸が裂けるような苦しみはなんだったんだろう。俺にはアズサさんがわからない。ううん、ホントは少しわかってる。わかってきた。俺たちは途中からお互いジョークにしてゴマカしてたんだ。辛いから。アズサさんは強がっていたんだ。アズサさんは平気なフリをしている。オトナのフリをしている。一緒に暮らしている俺にわからないはずがないじゃないか、そのくらいのことが。


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