残業・オア・ダイ 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/17(Fri) 17:41


「明日のプレゼンの資料よろしくね」と上司が帰ってから4時間、俺は頑張った。後ちょっとだ。終電までに終わらせたい。でも疲れた。トイレに行って帰りに缶コーヒーでも買おう。こわばった首をまわしながらトイレに行くと、見かけない女子社員が通路にいる。制服は確かにウチの社のものだが、いい女だ。なんでこんな美人に今まで気付かなかったんだろう。「今晩は。ずいぶん遅くまでいるんだね」と声をかけた。「あ、残業で。…あの、実は、女子更衣室のカギ閉められちゃって帰れないんです」「え」

俺には無関係なんで知らなかったんだが、女子更衣室のカギの管理は当番制になっていて、その日の当番が残業の届出をチェックし、最終退出になりそうな女子にカギを託す、というシステムになってるんだそうだ。彼女は定時まぎわに頼まれた急ぎの仕事を無届の残業でこなしているうちに、更衣室を当番にロックされてしまった、という。入社したての彼女は、ルールは説明されていたんだが忘れていたそうだ。残業するのも今日が初めてというんだから仕方ないか。それにしても、そんな妙なルールで今までよくやってこれたもんだ。こういう問題は過去に起きなかったのかな。これは同情に値する。

「そりゃ困ったね」。更衣室には私服とバッグが入っているという。交通費貸すから制服で帰ればいいじゃん、と言いたいのが正直なところだが、ここは会社組織だ。そうそう不人情なこともできない。ましてやこんな美人が相手だ。それに今会社に残っているのは俺と彼女だけらしい。早く戻って残業を片付けたいが、俺が見捨てるわけにはいかないな、これじゃあ。最後は総務部の誰かに電話することになるだろうが。

ためしに女子更衣室の隣の会議室に入り、窓を開けて顔を外に出してみる。なんと隣の女子更衣室の窓は半開きだ。窓と窓の間隔は1.5メートルくらいか。幅15センチ程度だが足場になりそうな外壁の突起と、窓の上を水平に走るパイプが俺を挑発している。

「壁をつたって更衣室に入れそうだな」。俺はそんなことを言ってしまった。「え、そんな。あぶないです。ここ、9階ですよ。無茶です」。そう言う彼女の心配そうな顔がチャーミングだ。もう引くわけにはいかない。

「大丈夫、大丈夫」。俺は意を決して窓に登り、下を見ないようにしながら右足を外側に伸ばす。次に右手で上のパイプをつかんだ。壁にへばりつく体勢で左足を引き寄せる。安定している。大丈夫だ、いける。もう2回同じ動作をすれば隣の窓に到達だ。遠い地面からクラクションが聞こえる。よし、一気に行こう。さっさと片付けて残業を終わらせるぞ。俺は壁を這った。ついに女子更衣室の窓枠に両手がかかったその時、無人のはずの室内で照明が灯った。

窓の中からさっきの女子社員が顔を見せる。「な、なんだ。どうしたんだ。カギが開いたのか」。俺はホントは理由なんかどうでもいい。早く不安定な状態を脱して室内に滑り込みたい。「とりあえずそこをどいてくれ。中に入るから」

彼女は「ふふふ、それはできないわ。ここは女子更衣室よ、ヘンタイ」と笑いながら、白い手袋をした手で、窓枠をつかんでいる俺の指を引き離そうとし始めた。「なにするんだ。やめろ。殺す気か」

「殺す?まさか。これは事故よ」。事故だって?なに言ってるんだ、こいつは。俺は窓枠を離すもんかともがいてるうちに靴が滑って足場を失いそうになった。「あ、あああ」。位置エネルギーに逆らえなくなった俺は、女が差し出した布製の長いなにかを反射的につかむ。が、女のほうはそれから手を離して笑う。ロープを連想させた布にさえ気を取られなければ他にしがみつけるものがあったはずなのに。

落下しながら俺は、渡されたものがブラジャーだと知った。俺はストラップレスのブラジャーを渾身の力で握り締めながら闇の中に落ちていった。


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