トゥード・アズール 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/11(Sat)

エリカさんが敬愛するエルバ・ラマーリョ
「ヒカワくんは、あたしになにをしてもいいのよ。あたしはヒカワくんになんでもしてあげる」
アズサさんが俺の耳元で囁いている。「でもね、ひとつだけしてあげられないことがあるの」「なに?」
「前髪を短く切ることだけはあたしはごめんだわ」

ぎゃあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

俺はベッドから飛び起きた。汗びっしょり。ひどい夢を見たもんだ。アズサさん、あれはほんの数時間だけの気の迷いです。ホントに。実際のところ、あれ以来エリカさんは常に頭になんかかぶって前髪を隠しているから俺にとっては今や単なるセンパイのひとりだし、エリカさんにとってはそもそも俺はアタマ数合わせのためにスカウトした高校生に過ぎない。俺とエリカさんは似ているらしく、女子メンバーはよく俺を「オトウトくん」と呼ぶ。そのせいかエリカさんも俺を弟扱いで、俺が性欲を持ったオスだなんて夢にも思っていないようだ。俺にヘッドロックをかけてきたりするのは、要はそーゆーことです。ああ、こんなしょーもない言い訳を聞かれてもいないのに考えてる俺っていったい。

今日俺はメンバーになってるサンバチーム「トゥード・アズール」のみんなとサッカーの応援にいく。俺たちの街のクラブチーム「ノルデスチ・インディペンデント」の、社会人サッカーリーグ2部への昇格がかかった試合があるんだ。これでわかるようにノルデスチ・インディペンデントはあんまり強くない。そして名前のウシロ半分がなぜか英語でアホっぽい。J参入をクラブ設立時の目標のひとつに掲げてはいるが、JFLは雲の上、J2なんて大気圏の外で見えやしない。でも俺たちの街のクラブだ。みんなが愛してる。トゥード・アズールにはサッカーファンが多い。普段はフラメンゴがどーしたパルメイラスがどーしたと語っている連中だが、やっぱり街のクラブのこととなると目の色が変わる。特にエリカさんは凄い。昨日から目がいっちゃってた。そんなわけで今日の俺たちは、エリカ隊長率いるノルデスチ・インディペンデントのサンバ隊である。

「ずぇええええええええったいに勝つ!我々はぁ、味方を鼓舞し、敵に呪いをかける!我々はタナカマコトになる!苦しい時間帯にもかかわらず前線に飛び出し敵のパスを奪って2点目を演出したニッポン・セレソンの炎のディフェンダー・タナカマコトになる!」

街の小さなスタジアム前に集合した俺たちの前で、大きなフラッグを持ったエリカさんが吼える。意味がよくわかんないけど熱いぜ。タナカマコトになってやる。たらすたたんたん。スネアの合図でサンバを鳴らしながらスタンドに突入し、そのままゴール裏の席まで行進だ。ノルデスチのサポーターから歓声が上がる。ここは俺たちの街だ。俺たちのホームだ。

試合開始だ。俺たちのツトメは、味方が攻めているときは軽快なサンバを演奏し、相手ボールになったら超スローテンポでノロイをかけることだ。エリカさんはエルバ・ラマーリョと化して叫ぶ叫ぶ。相手がミスすると「オッブリガード!」という声がスタジアムに響く。ハーフタイムには客席最前列に立ち「バランセ」の大合唱をリードする。なんという体力。俺は隣のドレッドのひとに「あのひと、何食べてるんでしょうね」と思わず聞いてしまう。「肉」。なっとくしました。

試合は前半にキーパーへのバックパスをなぜかかっさらわれて失点、後半右サイドをえぐられてのマイナスパスをゴール前で合わされて鮮やかに失点。終了間際に3本続けてコーナーキックを取ったが結局ノーゴールで終わってしまった。負けた。

それでもゴール裏に挨拶に来た選手たちをフルパワーのサンバで迎える。我らが戦士たちよ。俺たちはわけのわからないことを絶叫した。叫ばずにはいられない。だけど、選手たちがロッカールームに下がると俺たちはからっぽになってしまった。肩から下げたスルドがめちゃくちゃ重い。脱ぎ捨てたTシャツを見つけるのに苦労する。雨が降り始める。そういうもんだ。

「少年、来季があるさ」「そうっすね。そのとーりですね」

俺たち個人の寿命はやたら短いけど、クラブはずうっと長く続く。俺たちがこの星の上であれこれやらかしている時代はじきに終わるけど、クラブチームはそれよりずうっと先まで生き続ける。明日を信じよう。だけどさ、自分が見ることができない明日に、たとえハッピーなことが起こるとして、それがなんになるの。

居酒屋でしんみりと打ち上げをやることになった。しんみりは2分も続かなかった。エリカさんは乗りに乗って歌い、チューハイを飲み続け、潰れた。法律を遵守してウーロン茶を飲んでいた俺と、下戸で一滴も飲めないドレッドのひとのふたりでエリカさんを家まで送り届けた。3人とも泣いてて、まるでバカみたいだった。


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