テーハ・ジ・サンバ・エ・パンデイロ 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/08(Wed) 09:26


放課後オーヌキくんの家で麻雀をやる予定だったが、オーヌキくんのお母さんが倒れたという連絡が入り中止になった。「オーヌキくんも大変だな」「ガキがこんな年になってんだから親だってくたびれてくんだよ」「ヒカワって言うことなんか枯れてんな。ローセーってやつ?」「ゲーセンいこっか」「わり。俺仕送り前で金ねーんだ。帰ってハッピー三国志でも読むわ」「死ぬほどつまんねー口実。女だろ、このキラー細胞が。今度会わせてね、ヒ・カ・ワ・く〜ん」。明るくゲーセンに向かうムカイくんとロレンソくんと別れ俺は家路についた。

オーヌキくんのお母さんは一人暮らしの俺の健康を気にかけてくれるやさしい人だ。遊びに行くと、さりげなく俺に声をかけてくれる。ただし他の友達と扱いに差を付けないように気遣いながら。あのバランス感覚が好きだ。うざったくないおばさんって他に知らない。一人暮らしの男を見つけると、妙な食べ物を押し付けたがる女が世に溢れているのはどうしてなんだろう。オーヌキくんのお母さんは違う。俺の空腹のことじゃなくて、ホントに俺の健康のことを考えてくれてることがわかるんだ。そんなひとが健康を害しちゃうなんて。そのうちにお見舞いに行かなきゃ。ムカイとロレンソのバカふたりも連行して。

その時いきなり背中に体当たりをされた。「ヒカワよ、スキありじゃ」「いてーな、ガキかおめーは」。同級生のまりえというバカ女だ。「男子たちの憧れの美少女にグーゼン会えたんだから少しは嬉しそうにしなよ。さあひざまずいてクツをおなめ」「くさそーな話すんなよ、水虫女。脳に白癬菌でもまわってんじゃねーの」「何で知ってんの?あたしのバッグの中のクスリ見たの?見たのね?ヘンタイだ〜」「図星かよ。あつくるしーから帰れ。帰って水虫の治療でもしろ」「言われなくても帰るとこ。あ、いてててて」。まりえが急に顔をしかめた。「ヒカワくん、おなか痛くなった」「俺には下痢女を救うサイパワーなんてねーから俺に言うなよ。勝手にそこのコンビニのトイレ借りてろ。じゃあな」「行ってくるからバッグ持ってて」。女ってホントめんどくさい。

コンビニの前のベンチに座ってジョイスの「ナシオナル・キッド」を脳内で再生し、ラストのスキャットのハモリ部分、ネイ・マトグロッソのパートを練習する。「だばだだばだばだ〜」そしたらいきなりジョイスのパートを誰かに重ねられて驚く。陸上部みたいなカッコした女のひとが俺の隣で歌っていたんだ。小声で歌っていたつもりだったんだが、実はまわりに聞こえるくらいの声が出てたらしい。「こんちは」女のひとは笑顔で声をかけてきた。「どーも」「ジョイス好きなの?」「はあ」。俺はその会話の間、そのひとの前髪だけを見ていた。こんなに短い前髪の女のひとを見るのは初めてだ。すげー短い。すげえ。「あたしたち〇大のサンバチームなんだ。興味あったら練習見に来ない?あるでしょ?じゃおいでよ。さ、いこー」。腕をつかまれてしまった。俺はコンビニのレジの人にまりえのバッグを押し付けて拉致されることにした。今日はヒマだし。このひと前髪短いし。

〇大というのはすぐそこにある大学だが、構内に入るのは初めてだ。「あたしはエリカ、サワダエリカよ」。エリカさんはトゥード・アズールというサンバチームでパンデイロという楽器を担当してるんだそうだ。チームはけっこう名が知られてて、夏にはいろんなイベントに呼ばれるらしい。でも今年は夏休み中のメンバーの集まりにちょっと不安があるんだと。そっか。スカウトとゆーかカンユーとゆーか、俺は網にかかりつつあるらしい。ま、いーか。今日はヒマだし。俺はエリカさんの前髪を見ながらそんなことを思っていた。短い。これは短い。うわあ。きゃほー。

階段式のでかい教室に入ると、そこには20人くらいの大学生がパーカッションを手に集まっていた。エリカさんはどうやら「顔」らしくて、入っていくとみんなの視線が集まる。と、思ったら見られてるのは制服姿の俺のほうだった。エリカさんが声を張る。「彼は〜、ブラジル好きの高校生、名前は、えーとなんだっけ?」「あ、ヒカワです」「そう、ヒカワくん。今日は練習の見学に来ました。みんなよろしくね」。メンバー中の女性たちが俺を見ながらひそひそ話を始める。「かわい〜」「弟?」「顔ちっちゃーい」「エリカに似てない?」「かわいい」「あたしの〜」「まだコドモじゃない、だめよー」。おいおい、あんたらの隣にいるお兄さんは、俺の10倍は腕力あるぞ。男を見る目の無さは高校生と変わんねーな、女子大生も。

「じゃあヒカワくんは長身だからスルドね」。いきなりでかいタイコを渡された。背が高いとこいつが似合うんだそうだ。そういうエリカさんも172cmはありそうだが。それはともかく、これのどこが見学だよ、体験入隊じゃん。エリカさんは将来健康食品とかの販売で稼ぎそうだ、などと思いつつ俺は制服を脱いでスルドのストラップを肩にかけた。けっこう重い。「とりあえずは俺のを見て合わせて」。同じスルド担当のドレッドのひとが言う。「じゃあいこーか」みんなの前に立つリーダーはどこか南米の香り漂う小柄なひとで、彼の出すサインでリズムパターンを変化させていく。サインの意味がまるでわからない俺は隣のドレッドのひとについていくので精一杯だ。でも1時間くらいやってるうちにサインとリズムパターンが結びつきはじめ、グルーブを楽しみながらスルドを叩けるようになってきた。「いいね、やるね、少年」。ドレッドのひとは他人を乗せるのがうまい。でもさ、スルドは音を手のひらで止めるのがむずかしい。初心者の俺がみんなの足をひっぱってるのは自分でわかる。けど、他のメンバーと目を見合わせたり、エリカさんの前髪を見たりしながら叩く余裕ができるとサンバは楽しい。これは楽しい。ホントに楽しい。あの前髪をずうっと見ていたい。

練習が終わると俺は汗びっしょりでシャツがカラダに貼り付いていた。「ほら、ヒカワくん」。やっぱり汗だくでTシャツが透けてるエリカさんがタオルとスポーツドリンクを手渡してくれた。タオルはいいにおいがする。エリカさんのブラはきれいな水色で目にしみる。ドレッドのひとや、俺の中では「その他大勢」に配役が決定してる女子大生たちもやって来て俺を囲む。「どう?面白かったでしょ。スジいいってみんな褒めてたよ。あたしら7月からプールとかテーマパークとかあっちこっちでプレイするの。サイコーに盛り上がるよ。いっしょにやろーよ。やるでしょ?明日はダンサーの子たちも来るし。コスチュームすごいよ、コーコーセーにはシゲキ強すぎかな?」。俺はエリカさんの前髪が汗で輝いているのを見ながら、この前髪はシゲキ的だなー、でも、どーすっかなーと考えた。エリカさんの額と眉毛はかっこいい。でも夏休みかあ。どのくらい潰れちゃうんだろ。「明日もこの時間に練習やってるからさ。とりあえずおいでよ。みんな待ってるから」「はぁ」「約束だよ。ところでヒカワくん、いつもどこ見てしゃべってるの?」「え。エリカさんの前髪。すっげー短いっすね」。エリカさんは真っ赤になって突然ターンして走り去った。「あいつさあ、昨日酔っ払って自分で髪切ったんだと。失敗してあんなになっちまって。気の毒過ぎて誰も触れないでいた話題なんだわ。誰も言わないから自分でも忘れてたんだな、今の今まで」とドレッドのひとがつぶやく。「え。ポリシーでやってたんじゃなかったんだ」「ポリシー?なんだそら」

翌日、俺は階段教室を外から覗いてみた。エリカさんはアタマにバンダナを巻いてた。俺はどこのスーパーのリンゴが安いか考えながら帰った。


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