シルシ 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/07(Tue) 09:03


やっとこれで解放された。俺はこれで自由になれたんだ。社長と呼ばれるその男は思わず床に座り込んだ。長かった。長い呪縛からようやく抜け出せたんだ。

ミカミ・マスミという女性を事務員として採用したとき、その社長はこの地味な女に不思議と心を引かれた。いじめてみたい。何故かマスミは社長の苛虐性を刺激したのだ。黒いフレームの度の強い眼鏡、くすんだ事務服、野暮ったい髪型、その下に隠されたメスの甘い味を社長は感じ取っていたのだ。入社3日目の夜、持ち前の真面目さでマスミが一人残業をしているとき、社長は食事に誘い、強い酒で酔わせ、ホテルで抱いた。社長が予想したとおり、マスミの肉体は成熟していて、地味な外見とはかけ離れた強い肉の欲望を内に秘めていた。社長はその匂香に酔いしれた。処女だった。社長は決して妻には試せなかった願望のすべてをマスミにぶちまけた。その責めを受け歓喜の嗚咽を際限なく漏らし続けるマスミは、昼間は勤勉さだけが取り柄という真面目な事務員の仮面をかぶりつづけ、社長にとって大変便利な存在だった。1ヶ月ほどの間は。

マスミがその地味な外見で隠していたものは、性への強い渇望だけではなかったことがその後明らかになる。


マスミはとんでもない力を持っていた。化け物だった。魔眼の女だった。あいつに睨まれたヤツは、みんな不幸になった。あいつをいつもコケにしていた派手で男遊びが好きなキザキ・ヨーコはホテルの火事で死んだ。名前を聞いたことも無いプロ野球の二軍選手といっしょだった。その男は妻子持ちだったから、誰も同情するやつはいなかった。次が俺の女房だ。突然マスミが「奥さんと別れて」と言い出したとき、「いつからそんな口がきけるようになった」と一喝して普段より強く縛り上げて浣腸してやった。ところが翌日女房は脳梗塞で倒れ、今も入院生活を続けている。もう起き上がる日は来ないだろう。ミカミ・マスミはなにをしでかすかわからない女。魔女。俺はマスミが怖くなり、その後徐々に言いなりになっていった。それでこの家まで買い与えてやることになっちまったんだ。一応俺の身の回りのものも置いてはあるが、ここは完全にマスミの家になっている。

マスミはその後、後から入社したオオヤギという妻子持ちの営業マンに何故か心惹かれ、その間俺には安息の日々が訪れた。あるときオオヤギが病気で入院し、マスミが見舞いに行ったことがきっかけで二人は接近しだし、ついには二人そろって会社を無断欠勤するまでになっていった。マスミはオオヤギの子を妊娠していたらしい。しかし妻と別れようとしないオオヤギとマスミの諍いがエスカレートしていくにつれ、オオヤギの身には不思議な事故が何度も降りかかるようになっていく。そしてとうとうオオヤギは、未だに犯人が検挙されていない殺人事件の犠牲者になった。オオヤギの妻は、葬儀の翌日脊髄の病に犯され入院した。なんて女なんだ、マスミは。

オオヤギを飲み込んだマスミは再び俺の生き血を吸いに戻ってきた。もうごめんだ。あの悪魔の本性を目覚めさせたのは俺だ。俺があの魔女を育てちまったんだ。だから俺が決着をつけるしかない。昨日の深夜、以前のように俺は人目を避けてマスミの家を訪ねた。「結婚して。そろそろ社長になりたいの。あなたには名誉会長職の肩書きをあげるわ」。俺は無言でマスミを抱いた。それを俺の服従と考えたマスミは以前よりさらに激しく燃えた。俺もこれが最後という奇妙な興奮で責め続けた。

そして俺は、寝息を立てているマスミの腹や胸に包丁を何度も突き立てた。いつ起き上がってくるかわからない。そんな恐怖に駆られて俺は際限なく包丁を振り下ろした。


今日までの地獄の日々を回想していた社長が我に返ったときはもう、普段マスミが仕事に出かける時刻を過ぎていた。いつまでも物思いに浸っているわけにはいかない。社長は血まみれの服を脱ぎ、タンスに入れっぱなしになっていた自分のスーツを出して着替えた。会社には昨日からS県に出張ということにしてあるが、そんなことがアリバイになるんだろうか、と考えた。勝手口からそっと外に出たとき、玄関にひとの気配を感じ凍りつく。息を殺して様子を窺うと、見知らぬ若い女が玄関のカギを開け中に入っていくのが見えた。誰だ?マスミにはカギを渡すような家族も友人もいないはずだ。空き巣か?そうだ。たぶんそうだ。ははは、ババをひいたのはあの女だ。思いつきでやった犯行なのに、なんだか運が向いてきてるんじゃないか?

社長は急ぎ足で駅に向かった。S県のホテルに早く戻らなくては。駅の階段を駆け上がっているとき、物凄い豪雨が降り始め、社長の高級革靴はグリップを失った。社長は派手に前のめりに転倒し、周囲の通行人たちは笑いをこらえた。しかしその笑いはすぐに凍りつく。社長は動かない。階段を流れる雨の奔流が赤く染まっていく。

なぜか上着の胸ポケットに入っていた「三上」という認印は、社長の肋骨の間を突き抜けて心臓に到達していた。


前へ 目次 次へ
inserted by FC2 system