雨の日の女 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/03(Fri) 09:44


悪い兆候は朝からあった。大家と呼ばれる作家を担当することになった俺は、その日前任者と共にその先生の自宅に挨拶に伺う予定だった。しかし印刷所でトラブルが発生し、前任者はそちらに向かわなくてはならなくなった。「悪いが一人で行ってくれ。エクレア忘れるなよ」。大先生にひとりで会うのは不安だが、入社3年目ではそんな泣き言はもう言えない。俺はひとりで社を出たが、携帯電話をオフィスの充電器に刺しっぱなしで来たことに気付いた時には既に電車に乗っていた。

先生の家は住宅街にある。塀や庭を花だらけにしている家ばかりが並ぶ路地を地図を頼りに歩くがまるで迷路のようだ。朝は日差しがあった空が暗くなってきて、まずいなと思っていたら突然激しい雨が降り始めた。あたりは住宅だらけで駆け込める店もビルもない。先生の家にズブ濡れでいくのは避けたい。俺はとりあえず走った。するとある家の玄関から出てきた主婦が、走っている俺を見て声をかけてきた。「入って!入って!」。 ありがたい。俺は「すいません!」と言って駆け込んでしまう。「すごい雨ねー」「いやー参りました。助かりましたよ」。お互い突然の豪雨という異常事態で、軽い興奮を覚えている。「今、タオル持ってきますから」「そんな、すいません」

主婦はタオルで俺の背中や肩を拭き始めるので俺は恐縮してしまう。気持ちが落ち着き、ようやく見ず知らずの家に入り込んでいる気まずさを感じはじめた。「あ、自分でやります、タオルお借りします」とタオルを受け取るとき、主婦が両手に白い手袋をしているのが目に入った。俺の視線に気付いた主婦は「昨日天ぷらの油でヤケドしてしまって」と言う。軽いヤケドで済んだが、まだヒリヒリするんだそうだ。話を聞きながら俺は、主婦が若く、美人で、胸が大きいことに気付いた。薄いキャミソールの上に薄いカーディガンを羽織っている。胸の谷間がまぶしい。ラッキーじゃないか。雨は激しさを増す。「しばらくここで雨宿りさせていただけますか」と頼むとリビングに招かれた。「わたし一人ですから、気兼ねしないでくださいね」

「お仕事なんですか」と、ソファに腰掛けた俺に主婦が尋ねる。今日訪問する作家の話をすると、彼女は「まあ、わたしファンなんです」と言う。「あ、エクレア買ってくるのを忘れた。センパイに必ず持っていくように言われてたんですよ」。彼女はあの硬質な作品を書く先生が実はエクレア好きだという話で笑い、俺たちの固い雰囲気は和んだ。「じゃあ今日は大事な面会なんですね。きちんとして行かないと。濡れたスーツ、浴室乾燥機で乾かせますよ。今始めれば雨が止む頃には乾きますから」

俺はそれはいい、と思った。気の利く親切な美人だ。笑顔もいい。浴室に案内され、「ここでスーツを脱いでおいてください」と彼女はどこかに行った。上着とシャツを脱いでいると、いきなり彼女が入って来て驚く。カーディガンは脱いでいて、薄いキャミソールだけの姿になっている彼女は、ハンガーと男物のパジャマを持っている。「主人のものです。着ていてください。主人は出張で年内は帰って来ませんので気を使わないでくださいね」と言いながら、俺のスーツやシャツを浴室の物干し用のバーにかけていく。「下もください」「あ、は、はい」。彼女の前でスーツの下を脱ぐのは抵抗があった。反面、反応が見たかった。

「たくましいんですね。スポーツをおやりになっていたんですか」。彼女は俺の服をハンガーにかけながら言う。俺は彼女が腕を上げ下げするたびに、キャミソールのわきからのぞく胸の隆起の揺れや、なめらかな脇の下から目が離せない。やたらと喉が渇く。

「なにからなにまですいません」「いいんですよ。でもお願いしたいことがあるんです」「なんでしょう」「リンゴをむいてくれませんか」「はぁ?」「昨日から食べたかったんですけど、この手のせいで、ちょっと」「お安いごようです」。

俺たちはリビングに戻った。彼女はリンゴと包丁を持って来た。果物ナイフじゃないのか。賢い主婦は包丁一本で何でもこなすのかな。俺がリンゴをむき始めると、彼女は俺のわきに立ってベランダの外を見ている。「ますます強くなっているわ、雨」。リンゴをむき終えた俺も、なんとなく立ち上がり、彼女と並んで外を見る。そのとき空が光り、それから大きな雷鳴が響いた。「!!」彼女は俺にしがみついてきた。俺は息を呑んだ。彼女は離れない。俺は彼女に腕をまわす。顔を上げた彼女の唇を奪うと、舌をからめてくる。俺はもう後戻りできなかった。

ソファで手袋しか身に付けていない女の肉体を貪った。「手がこんなだから、今日は何もしてあげられません。そのかわり、わたしを好きなようになさって」。俺は興奮した。いよいよ挿入というときに、彼女は「これだけはお願いします」とコンドームを俺に差し出した。どこにあったんだろう。さすが主婦、ということか。

こんなにいい女を抱いたのは初めてだ。俺は普段より早く果ててしまった。でも彼女は満足そうな顔で余韻に浸っている。頬にキスすると「素晴らしかったわ。これからもこんなふうにしてくれますか?」と聞いてくる。今後もやれるのか。この美女と。

彼女は丁寧に俺からコンドームを外してくれた。「手袋が汚れるよ」「あなたのなら汚いなんて思いません」。慣れた手付きでコンドームの口を縛る。そして立ち上がると俺の胸に顔を寄せて「わたしの香水が移っちゃったわね。先生のところに行く前にシャワーを浴びたほうがいいみたい」そう言って彼女は浴室に行き、俺の乾いた服を持ってきてくれた。「これでシャワーが使えます。どうぞ」。俺は「いっしょに入らないか」と言ってみたが、彼女は手袋をした手を上げて、笑顔を見せるだけだった。

ヤケドじゃしょうがないか。でもラッキーだな。これからも大先生の家に行くたびに、ここに寄れるのか。俺の波が来てるな。これは。あ、先生に電話入れとかなきゃまずいな。シャワーから出たら電話借りよう。

髪をタオルで拭きながらリビングに戻ると、テーブルにビールとグラスが置いてある。本当に気が利く女だ。シャワーの前にもう一発しておきたかったな。先生の家の帰りにもう一度寄るって手もあるか。俺は2杯目のビールをグラスに注いでいる自分に気付いて驚いた。今飲んじゃまずいだろ。外を見ると雨は上がっている。もう行かなきゃ。彼女はいない。どこだ。トイレか。とりあえず服を着る。彼女は戻ってこない。「すいませーん。すいませーん。俺、そろそろ行きまーす」と大き目の声で言ってみる。返事が無い。靴を履く。「俺、もう行かなきゃまずいんで、オイトマしまーす」。置き手紙、と思いついてカバンからノートを取り出し、走り書きしたページを破く。どこに置こうか。やっぱりリビングのテーブルか。その時パトカーのサイレンが近づいてきて、俺がお邪魔している家の前に止まった。

寝室で、その家の本当の主婦の死体が発見された。俺が会った事も無いその主婦は、犯された形跡があり、膣から採取された精液は俺の血液型と一致した。凶器の包丁には俺の指紋しか付いてなかった。


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