少年 - 後編 作:まりえしーる 発表日: 2005/06/01(Wed) 08:45


「実はボク、妹と二人暮しなんです」。隣に越して来たヨシカワさんは、高級チョコレートを持ってあたしの部屋に挨拶に来ている。奥の部屋に住む少年に下心を込めて料理を持っていったはずなのに、何故かあたしの料理はヨシカワさんに届いていた。なぜなんだろう?そんなあたしの気持ちは知らず、ヨシカワさんは引越し早々にオスソワケをしたあたしに親しみを感じているらしく、打ち明け話をし始めている。

「いずれお耳に入るでしょうから」とヨシカワさんは言う。ちょっと前に駅で痴漢現行犯で逮捕された男が警官の銃を奪って駅のホームを逃走しパニックを引き起こしたが、勇敢なOLが犯人を投げ飛ばし、運悪くホーム下に落ちた犯人は轢死、という事件があった。なんとヨシカワさんの妹、コナツさんがそのOLだったという…。犯人を死なせてしまったこと、横暴なマスコミの取材にさらされたこと、犯人が就職したばかりの会社の社員だったこと、ネット掲示板で「ジュードーOL萌え〜」とかネタにされまくったことなどに押しつぶされ精神的にまいってしまい自宅にもいられなくなって、ここに越して来たんだそうだ。お兄さんが世話をしてあげているんだ。そんなヘビーな話を聞かされてしまった。

気の毒だなとは思うけど、あたしの関心事は他にある。「あの、昨日のビーフストロガノフなんですが…」「あ、とても美味しかったです。ごちそうさまでした」「いや、そうじゃなくて、あの、あたし、自分でヨシカワさんのお宅に伺ったんですよね、あ、ヘンな言い方ですけど…」「はあ、え〜と、正直ちょっと驚きました。見ず知らずのウチに、こんな親切をしてくださるんで。でもおかげでここでの生活に希望が持てましたよ!でも、どこかのお部屋とお間違えになった、とかそういうことなのでしょうか?」「いえ、いえ、そんなことないです。押し付けがましかったかな、と思っただけです」

謎だ。あたしは絶対少年に直接料理を手渡したはずなのに。

その夜、誰かがあたしの部屋のドアを激しくノックしている。「どちらさまですか?」ドアを開けずに尋ねる。「ヨシカワです。妹が自殺するって言い出して。カミソリを持ってるんです。女性の方から諭していただければ落ち着くんじゃないかと思うんです。申し訳ありません、助けていただけませんか」。なんであたしが。

心の準備も出来ないうちに、あたしはヨシカワさんの部屋に連れ込まれた。全部ウソでワナかも、とその時思ったが、ホントに妹さんがいた。憔悴しきった顔をしている。生けるシカバネ、というフレーズが頭に浮かぶ。でもボーイッシュでかわいい。健康だった頃はきっと男子にも女子にも人気があっただろうな。右手に持ったカミソリなんか似合わないよ。「ねえ、コナツさん、落ち着いて。少しお話しましょうよ」。あたしは何のアイディアも無いのに話し始めていた。「お兄さんは外に出ていてください。女同士の話をしますから」。ふたりきりになった。

「死なせて」。10分にも及ぶあたしの話の後で、コナツさんはそう言った。初体験の、まさにその時にホテルの火災報知器が鳴り出し、あわてて避難したことや、小学生の時祖父の家にあたしを預け、青いユニフォームを着てドーハに行った両親が3ヶ月も帰ってこなかったこととか、タンポンが抜けなくて医者に行ったら、ついでにもう一本出てきちゃったこととか、あたしの恥ずかしい過去をたっぷり話したのに、それかい。

その時、壁から何かが抜け出して来た。な、な、なんだってんだ。あたしは恐怖でへたりこんでしまった。現れたのは女だ。少年といっしょにいた長い髪の女だ。公園で線香花火をしていた女だ。夢であたしを笑ったあの女だ。なんなのいったい。コナツさんも目と口が開きっぱなしだ。

「死ねば全部終わると思ってるのね?」長い髪の女はコナツさんに話しかけてる。「あたしもそう思ってた。あたしもつらいことがあって、このアパートで自殺したの。でもね、死んでもなんにも変わらなかったんだな、これが。ご覧の通り、あたしはユーレイよ。でも心の中にあるものは生きてるときのまま」

「死んでも苦しみは終わらないってゆうの…。そんなぁ。じゃああたし、どうすれば逃げられるの」コナツさんがつぶやく。髪の長い女の言うことは絶望的なまでに説得力がありすぎる。

すると髪の長い女が言う。「まずはセックス、それから恋」

「はぁ?」あたしとコナツさんは唖然とした。このユーレイはバカなのか、ふざけてるのか、マジメなのか、バカなのか。でも、たった一言でその場の空気を劇的に変えてしまったのは確かだ。もうこうなったら、このひとの展開についていくしかない、と思ってコナツさんを見ると、何かを真剣に考えている。「セックス…セックス、そして恋」、わ、マジに受け止めているぞ、この娘は。化かされているのでは。

でも、セックスと恋。それは確かに救いなのかもしれない。あたしの薄暗い毎日の暮らし、高校生の男の子にまで触手を伸ばそうとするあたしの心。求めているんだ。マイ・スピリット・イズ・ウィリング。ああ、もしかして、あたしも化かされているのでは。だけど胸が痛むのはどうして。

「でも、もうあたしには出会いなんて一生無いわ」コナツさんがぼそっとつぶやく。すると髪の長い女は「もう出会ってるんじゃないかな、キミたちは」と言う。そして壁の中に消えた。

キミたち?キミたちって?あたしとコナツさんは顔を見合わせた。コナツさんが頬を赤らめる。え、なんで?なんでそうなるの?あたしまで恥ずかしくなる。コナツさんは胸がすごく大きい。さっきからずっと気になっていた。さっきからずっと触ってみたかった。「は、はじめまして、コナツです」「はじめまして、あ、あたしはフジノです」「フジノさん、よろしくお願いします」「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」「あ、あの、こうゆうの慣れていないので、やさしくお願いします」「は、はい、やさしくします」。あたしたちは二人とも化かされているのかな。でもこんなに動悸が高まるのは何故。あたしはコナツを抱きしめてしまった。最初はぎこちなく、徐々に力を込めて。コナツが「あ、カミソリが、あぶないですから」と言う唇を、あたしは唇で塞いでしまった。「お兄さんには内緒よ、コナツ」「はい…」。あたしはカミソリをそこらに投げ捨て、コナツを布団の上に横たえた。

翌日からコナツは職探しを始めた。就職難のこの時代、女が生きていくのは大変だ。でもあたしがついてる。あたしも頑張る。教師になる。あたしも迷ったり悩んだりしている子たちに何かしてやりたい。あたしも絶対女子高の教師になるんだ。朝、出掛けに少年と出くわす。相変わらず背が高く、スリムで、おしゃれだ。あのひとが選んだ少年なんだなあ。ビーフストロガノフのことなんか全然知らないみたいだ。もしかしたらあたし、あのひとにうまく追い払われたのかな?ううん、コナツと運命の出会いをさせてもらったんだ。「よおっ、少年、ちゃんと食べてるかぁ?」。少年は普段の無愛想な顔で「おはよう」と「どうも」の中間で答えて出かけていく。少年が大音量で聞いてるヘッドフォンからジョイスの歌声が漏れる。「コラソン・ジ・クリアンサ」、子供の心、か。少年はいつも走っている。今朝は久しぶりの青空がまぶしい。あたしも駅まで走ってみよう。アジサイが満開の道を走ってみよう。


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