少年 作:まりえしーる 発表日: 2005/05/30(Mon) 16:01


あたしの住んでるアパートには一人暮らしの高校生がいる。その男の子はあたしと同じ1階の、一番奥の部屋に住んでいる。郵便受けにも部屋にも彼は名前を書いていないので苗字すらわからない。あたしは自分の中では彼を「少年」と呼んでいる。朝出かけるときなどに顔を合わせると、少年は不機嫌なような戸惑ったような様子であたしに「おはよう」と「どうも」をミックスしたような曖昧な声をかけて足早に去っていく。照れてるのかな。スリムで髪が長くて制服が似合う。あんな弟がいたら楽しいだろうな。ちゃんとご飯食べてるのかな。あんなに細くて。

アパートの1階は4部屋あるが、両端のあたしと少年の部屋以外は空いている。2階は少年の部屋の真上が空き部屋だ。綺麗なアパートなのに不思議にいつまでも埋まらない。空き部屋が多いと防犯上不安があるので、住民同士仲良くしていたほうがいいと思う。うん、これは仲良くするのに立派な理由になる。

ある晩の帰り道、少年と出くわした。スーパーのレジ袋を持っている。中身はリンゴだけのようだ。「今晩は」と声をかけると、少年は「今晩は」と「どうも」を同時に発音した。「それ、晩ご飯?」と思い切って話しかけてみる。少年は照れくさそうに「あ、いや、ええ」とかこっちを見ないで言う。いつもの不機嫌そうな表情は、やっぱり照れているんだ。この子はどんな顔で笑うんだろう。なついてくれないかな。餌付けできないかな。

次の晩あたしはビーフストロガノフを大きなおナベで作った。育ち盛りの男の子がリンゴだけじゃ可愛そうだ。大き目の器に入れてラップをかけて少年の部屋に行く。帰宅していることは料理の前に確認済みだ。チャイムを鳴らす。返事が無い。鳴らす。返事が無い。もう一度鳴らす。「ふわ〜い」という声がしてドアが開いた。ボサノバが聞こえる。少年はいかにも寝起きという顔だ。毎朝時間をかけてセットしているだろう髪も、今はぐしゃぐしゃでかわいい。「あ、晩ご飯多く作りすぎちゃって。よかったら食べてくれない?」少年は頭をかきながら「あ、どーも」といつもの不愛想な顔で受け取ってくれた。「食器は後で返してくれればいいから。じゃあ」と返事も聞かずに部屋に戻る。この場面はあっさり引き上げるのがポイント。さりげなく。さりげなく。隣のやさしくてきれいなお姉さん。

あたしはメイクを落とさないまま軽く食事をし、リップを塗りなおして待った。少年はきっと今夜のうちに器を返しにくる。

しばらくして少年の部屋のドアの音が聞こえた。さすが男の子は食べるのが早い。待っていないフリをしなくては。少年の足音が近づき、そして、あたしの部屋を通り過ぎた。なんで?

ガマンできずに静かにドアを開けて外をうかがうと、少年の後姿が見えた。長い髪の女を肩車して歩いている。なんだ、彼女がいたんだ。でも何故肩車?あたしはサンダルを履いて後をつけてしまう。どんなひとなんだろう。女は白い麻のワンピースを着ている。驚いたことにハダシだ。少年は軽々と歩いている。女の髪が風になびく。体重の無い女、そう思った。憎たらしい。

少年は近所の公園に入った。長い髪の女はハダシなのに、軽々と少年から地面に飛び降りる。音もたてずに。そしてふたりは線香花火をはじめた。それは神秘的な光景だった。

ふたりとも幽霊みたいだな。生きているあたしには入っていけない世界みたい。もしかしたら、世代の違いなのかもしれない、などとも考えた。教職課程のことがなんだか面倒になってきた。

でもお姉さんにしかしてあげられないことだって、必ずある。そう思いながら部屋に戻るとドアの前にあの食器が置いてある。持ち上げると下に「ごちそうさまでした。お留守のようなので食器ここに置いておきます」と書いた紙が。なぜ?あたしが部屋を出るときには無かった。少年はまだ公園に髪の長い女といるはずだ。

その時隣の部屋のドアが開いた。空き部屋なのに何故と、どきっとした。するとジャージ姿の小太りの男が現れ、「あ、すいません、そんな所に置いちゃって。引越しの挨拶もしないうちから、けっこうなものをいただいちゃって恐縮です。ごちそうさまでした。あ、申し送れました。ボク、ヨシカワといいます。今後ともよろしくお願いします」。このひと、だれ。

なにがおきたのかわからない。あたしは荒っぽくメイクを落としビールを2本飲んで寝た。シャワーなんて明日でいいや。夢に髪の長い女が出てきた。線香花火の光に照らされたきれいな顔は、あたしを見て笑っていた。


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