ヒカワくんの長い夜 作:まりえしーる 発表日: 2005/05/23(Mon) 10:56


「うわっ、仲いいんだ〜びっくり」。ある夜アズサさんとリンゴを食べてるときに、ナベを持った同級生のまりえがいきなり部屋に入ってきた。「ぬ、ぬあ、なんだおめーは」。俺がせっせとアズサさんのためにリンゴをむき、アズサさんはテレビを見ながらそれを食べるだけ、という場面を目撃されたせいで俺はうろたえている。「勝手にヒトンチに入って来やがって。アポ無し訪問なんてするかフツー。ドラマじゃねーぞ」「ケータイ忘れてきた」「だったらせめて入る前にチャイム鳴らせよ」「カギ開いてたからさ、とりあえず中を覗いてぇ、もしも取り込み中だったら帰ろうかと思って。チャイムで中断させちゃ悪いかなって思うじゃないフツー」。バカか、こいつは。バカだ。

俺は最近ドアロックをよく忘れる。壁抜けが出来る同居人のおかげでカギの意義を忘れがちで、防犯意識は薄まる一方だ。「でもドキドキした〜。ひとの家に侵入するのってスリリングだよね〜」。まりえはけっこうアブナイ性癖の持ち主かもしれない。

このクラスメートには俺のプライベートを見られすぎだ。いつか口封じのために何かしてしまいそうな気がして自分が怖い。
アズサさんの様子を盗み見ると、リンゴをかじりながらテレビの「世界遺産」を眺めている。まりえにはまったく関心がなさそうだ。よかった、今のところは。今回はガラスは割れずにすむかもしれない。

「で、何か用」「ポトフを作ったんで試食してもらいに来た」「はぁ?なんで俺が試食させられちゃうわけ」「他にあたしの料理のヘタさ加減知ってる人がいないからだよ。ヒカワくんならもう何出しても驚かないでしょ。恥ずかしくないじゃん。それだけ」。確かに一度俺は、まりえの料理モドキを食わされたことがある。しかし不幸を体験した人間に追い討ちをかけるのはいかがなものか。「セールスお断り」とか「リフォーム済」と玄関に貼っている家には次から次へと悪徳業者が訪問してくるようなものだろうか。

その時アズサさんが両手を上げて伸びをしてから立ち上がった。「世界遺産」が終わったらしい。そして長い髪と白い麻のワンピースをなびかせて壁の中に消えていく。俺にはアズサさんの行動がまるで理解できない。これは何かの意思表示なのか。何も考えてなくてただ眠くなっただけなのか。そもそも幽霊は眠くなるのか。気を悪くしてたらどうしよう。まりえとふたりきりになるのも気が重い。たぶん俺はすがるような目で消えていくアズサさんを見ていたんだろう、顔に「行かないで〜」と書いてあったんだろう。まりえに気持ちを読まれたようだ。

「ヒカワくんって、なんでユーレイにはやさしくするわけ。なんでユーレイには気を使うわけ」「なんでお前は好戦的なわけ」「どーせあたしは好戦的ですよソルジャーですよ。ユーレイさんは、さぞやおやさしいんでしょうね」

こういった不毛な言い合いがしばらく続く。情けなくなってくる。

「あのひとのことをユーレイって言うのはやめろ」「ヒカワくん、おかしい。ヘンだ。あいつのせいでおかしくなっちゃったんだよ」
それはコトバ足らずではあるが、俺が常日頃見ないフリをしている問題についての指摘だ。論理的じゃないくせに痛い所を簡単に突いてくるから女はイヤだ。

その時突然、天井から白くて細い脚と白いワンピースにつつまれたお尻が降りてきた。アズサさんだ。俺は慌ててお姫様ダッコの形でキャッチする。俺の腕の中にすっぽり収まったアズサさんは疲れているようだった。彼女は俺を見つめ「出かける支度をしなさい」と言う。今だに近くで見つめられるとどぎまぎしてしまうのはなぜだろう。アズサさんは俺の腕から降り、まりえに向かって言った。「あなたのお父さんが入院したわ。今すぐ〇〇病院に行きなさい」。まりえは固まった。幽霊からのこんなコトバはインパクトが強すぎる。「大丈夫、ヒカワくんが送っていくから」。アズサさん、なんでそうなるのですか。

会話の無いタクシーで病院に到着し急いで病室に入ると、ストールから立ち上がったまりえの母親は「まりえ!この娘はこんな大変な時に携帯忘れるなんて!」。するとベッドから「まあまあ、たいしたこと無かったんだから」と笑顔のオッサンがなだめる。この人がまりえの父親か。無事だったんだ。「なんだ〜心配して損した。大げさだなあ、もう」とまりえがぼやく。ユーレイのお告げとか、バカなこと言うなよ、と俺はあせる。「大げさって何のこと?あたしの書置きって不吉だった?」。善人の母親でよかった。

じゃ俺はこれで、と病室を出ると、まりえ母娘がついて来た。病室のドアを閉めてからまりえ母は、まりえに向かって妙な話を始めた。「実はね、パパあぶなかったんだよ、危篤だったの」「え」「お医者さんもあきらめちゃったみたいだったのに、なぜか急に意識が戻ったの。お医者さんもあわててたわ。でね、パパあっちの世界に行きかけたんだって。さっき聞いたんだけど、パパが言うには、パパは石だらけの道をとぼとぼ歩いてたんだって。そしたら白い服着た髪の長い女のひとにいきなり腕をつかまれて強引に来た道を連れ戻されたんだって言うのよ」「え、それって…」。俺は息を飲んだ。

アズサさんだ。俺にはわかる。さっきの外出はこれだったのか。

まりえが声を震わせ「ママ、その人ってもしかして…」。するとまりえ母は笑顔で「そう、その通り!勿論あたしよ、若い頃のあたし!ずっとあたしがパパの耳元で声をかけていたから、出会った頃のあたしを思い出したのよ。パパがベタ惚れしてた、あの頃のあたしを。あの人、愛するあたしを置いていくことができなかったのよ〜。パパは、お前じゃない、全然知らない女のひとだった、なんて言うんだけど、あのひと照れてるのよ。あたし愛されてるのね〜」「へぇ〜ママ髪長かったんだ」「え?ずっとショートだけど、なんで?」。この青天井のハッピーさ加減、さすがまりえの母親だ。

まりえは病院の出口まで見送ると言う。そしてふたりだけになると「今日はびっくりすることばっかだ。でもナンバーワンはやっぱヒカワくんの意外な一面を知ったことかな」。リンゴの件を持ち出されるのかと俺は身構えた。「天井からあのユー、あ、あのひとが降りてきたとき、ヒカワくんすっごく真剣だった。もしこのひとを床に落としちゃったらオレは腹を切る!みたいな顔してさ。ヒカワ必死だな、みたいな。あんなとこ初めて見たよ。ホントにあのひとのこと大切なんだね。その真剣さに免じて、今日のところは大目に見といてやるよ、じゃあね、明日ガッコ遅れるなよ」。「大目に見る」ってなんのこと。やっぱあの母にしてこの娘ってやつなんだろうか。

どうしてアズサさんはまりえの父親を助けたんだろう。いい話だけど、らしくないとも言える。俺にはアズサさんがわからない。アズサさんはいつまでも遠い。俺は走って帰った。仕送りで生きてる身にはタクシーなんて無縁だ。だってタクシー代でリンゴがもっと買えるじゃないか。リンゴなら俺がいくらでもむいてやれるじゃないか。他に何にもできない俺にだってさ。今夜はよく晴れて俺たちの街の空は珍しく星がいっぱいだ。早く帰ろう。あの部屋に帰ろう。アズサさんがいるあの部屋に帰ろう。俺は子供みたいに泣きながら走った。

「ただいま」今度はちゃんとドアをロックして部屋に入ると、アズサさんは流し台の前に立っている。なんて華奢なんだろう。俺はたまらなくなって背後からアズサさんを抱きしめる。するとアズサさんは「おえっ」。なんと、ユーレイが吐いた。 「ど、どーしたの?」俺は振り返ってテーブルの上を見た、そして事態を把握した。「アズサさん、どうしてまりえの作ったポトフなんか食べたんだよ〜」「ヒマだったから。おえっ」。俺にはアズサさんがわからない。

普段以上に青白い顔をしたアズサさんをベッドに寝かせ、俺は床に座り込んだ。自分以外の誰かのためでこんなに胸が痛むのは初めてだ。アズサさんがどうかしちゃったらどうしよう。すると視線を感じた。アズサさんが笑って俺を見ている。「気分良くなった?」「戻してスッキリ。さっきからずっとなんともなかったんだ」「なにそれ」「ふふ、ヒカワくんがオロオロしてるの見てると面白くて。あ、ごめんね」「ひどすぎ」「だからごめんねって。それにしてもあの娘、どうやったらあんなマズイもの作れるかな〜」。怒るべき場面なのかもしれない。でもキンチョーから解放された俺は笑ってしまう。よかった、ホントによかった。

「ところでアズサさん、どうしてまりえのオヤジを」と言いかけると、アズサさんはそれをさえぎった。

「空を飛んであの病院に行く途中、甘い香りがしたの。下を見ると、すごく大きな木があった。葉っぱもすごく大きくて。その木にたくさん花が咲いていたの」

この街の自然公園に一本だけあるホオノキだ、と俺は思った。モクレン科で初夏に花を咲かす。あの上を飛んでいたのか、アズサさんは、あんな場所の、夜の空を、たったひとりで。

「あの花は死んだひとのために咲く花よ」「え」「あんな高い木の、あんな大きな葉っぱの上に、あの花は咲く。下から見上げても見えない場所で、あの花は空に向かって咲いているの。あれは人間に見せるための花ではないわ。死んで夜空をさまようひとたちが見るための花なんだって、あたしは思った。そして、あたしは死んでるんだって、改めて思った」

アズサさんは何を言おうとしているんだろう。わからなくて怖い。いや、俺にはわかっているから怖いんだ。アズサさんは、俺が常に目をそむけていることを語っている。

「ヒカワくん、忘れないで。あたしはもう死んでるんだってことを。絶対に忘れちゃだめよ」

もうそれ以上何も言わないで。俺はキスでアズサさんの話を終わらせる。唇はとろけるようにやわらかい。アズサさんはモクレン科の花の香りがした。


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