その後のヒカワくん 作:まりえしーる 発表日: 2005/05/17(Tue) 09:03


麻雀の誘いを断りガッコからまっすぐアパートに帰って、ため込んでしまったシャツのプレスをしていた。明日着ていくシャツがない。洗濯ジワとおしゃれジワの間には絶対に越えられないカベがある。美意識とは「あんなふうにだけはなりなくない」という嫌悪感の結晶だぜ、ベイブ。でもさあ、17歳の俺がなんで遊びにも行かずアイロンがけなんてやってんだろ。俺の青春のかなりのページ数はアイロンがけで占められてる。総力特集!みたいな。はぁ。高校生の分際で一人暮らしかよってうらやむ友達もいるけど現実はこんなもんさ。ちまちましためんどうなことばかりだ。とはいえ形態記憶シャツのデザインはオヤジっぽくて買えないよなあ。毎日シャツをクリーニングにばんばん出せる身分になりてえ。

とか考えていたら実家の親から電話がきて、飼い犬のヤーボが今日死んだと聞かされた。心が無いやつ、と人によく言われる俺だけど、これはかなりこたえた。プレスなんて、もうやめだ。悲嘆に沈んでしまいたくなったので、CDをアンビエント系の「ゲット・アップ・ウィズ・イット」に替えた。ユーウツなサウンドに包まれながらベッドに寝転んでヤーボのことを考える。小学生の時からずっといっしょで、実家を出るまで毎日俺が散歩させてたヤーボ。最近はすっかりほっぽりっぱなしだったことが後ろめたい。ガキの頃はつまんねー人生だったけどヤーボと遊んでたときは楽しかったな。ウチに来たときはまだ子犬だったのに。年をとっちまったんだな、俺もヤーボも。みんな死んでいくんだ。アイロンがけとかで時間を使い果たして死んでいくんだ。2曲目「マイシャ」の中盤で、案の定というか、こうなることはわかっていたというか、やはり泣いてしまう。

ヤーボ、ごめんな。なんにもしてやれなくて。

前の住人が部屋の中に現れるが、普段と違う俺の様子に気付いたのか、いつものようにすぐ俺にのしかかってはこない。首を少し傾けてこちらを見ている。

あ、初めて俺の話を読む人のために説明しておくと、「前の住人」というのは俺が入居する前にこの部屋で自殺した女の幽霊だ。俺が引越して来た日からほぼ毎晩現れてほぼ毎回俺にセックスを強制する。金縛りにされて強姦されるもんだから初めのうちは死ぬほどびびった。が、今じゃもう慣れちゃった。とはいえ困ってることはいくつかある。彼女とのセックスはこの世のものとは思えないほど強烈な快感で、ついついやり過ぎてしまい学業に支障をきたしていることとか、女友達のまりえが遊びに来ると、彼女が白骨死体の顔でおびえさせて帰しちゃうこととか。なんかこう、人として、もっと深刻に困らなきゃいけないことは他にあるような気もするんだが。

ちなみに前の住人は、すげー美人だ。ゴクドー用語で言えば「びい」な姐さんだ。ときどきやる白骨死体の顔マネさえやめてくれれば。

前の住人はしばらく俺の涙を眺めてから、くるっとターンしてドアを通り抜けて外に出て行った。セックス狂の幽霊女のくせに何か思うところでもあるんだろうか。

数分後、前の住人はドアを通り抜けて帰ってきた。ひとりじゃなかった。前の住人は幽霊だが足がある。しかも美脚だ。それはともかく、その美脚の横に半透明の犬がいた。

「ヤーボ!」。俺は跳ね起きた。なんということだ。ユーレイはユーレイを呼ぶのか。ヤーボは、てゆーかヤーボの霊は尻尾を激しく振り回してる。俺に飛びつきたくてしょうがないんだ。俺も駆け寄りたくてしょうがない。しょうがないんだが。だけど。だけどさ。

「ヤーボ、だめだ。行け。会えたのはすっげーうれしいんだけど、これは間違ってる。いけないことなんだ。お前はもう死んだんだ。俺たちは会うべきじゃないんだ。お前は行かなくちゃだめだ」俺は自分を押し殺してそう言った。なんだか、犯してはならない神聖なルールを踏みにじっているような気がしたからだ。

ヤーボは俺の言葉を理解した。尻尾をうなだれ目を伏せている。ごめんね。犬のしおらしさってやつにはいつも胸をえぐられる思いがする。「ヤーボ、行け」。ヤーボは後ろを向きドアを通り抜け、最後に残った尻尾を2度振ってから消えていった。俺は手で顔を覆って泣いてしまった。

「えらいね、ヒカワくん」。前の住人が木枯しのような声で言った。「セックスのことしか考えられない性欲ボーヤだと思ってたけど、見直したわ」。あんたにだけは言われたくない。「さっきのセリフ、あたしが言われてる気がしたよ。あたしもここにとどまってちゃいけないんだなって思った。ヒカワくん、迷惑かけたね。あたしも行くことにしたわ。あの犬はあたしがあっちの世界にちゃんと連れて行くから心配しないで」。そう言って前の住人はにっこり微笑んだ。
「じゃあね、ヒカワくん。まりえちゃんのことはごめんね。きっと仲直りできるよ、たぶん、だけど」。ユーレイは人の心は読めても先のことはわからないらしい。前の住人は俺に背を向けた。「あ、あのさ、名前くらいは教えてくれないかな」と俺は言っていた。

「ふふ、2年間も同棲してたのに名前も知らなかったんだよね。アズサよ。生きてた頃はアズサってゆう名前だったの、あたし」
「では、アズサさん」俺は正座した。彼女もまっすぐこっちを向いて微笑み「なあにヒカワくん」
「最後にひとつだけお願いがあります」「あらなにかしら。言ってごらん」

「最後にもういっかいだけやらせてください」

アズサさんは、せっかくいい話になりかけたのにブチコワシだこのドアホウが、と叫び白骨死体の顔になって俺に襲い掛かり、普段以上に激しいセックスを始めた。「もー出ていくのやめた。ずっとこの部屋に憑いてやる。キミを生身の女じゃ感じないカラダにしてやる」
もうすでになってますよ、アズサさん。俺は何度も何度も果てた。

「俺、アズサさんが好きです」「そんなこと言うなよ。あたしますます成仏できなくなる」

幽霊も涙を流すんだってことをこの時知った。ヤーボ、こんな飼い主でごめんな。


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