月までぶっ飛ばして 11 作:まりえしーる 発表日: 2006/01/18 15:00

「三浪した上に大学院に行きたいだとお?いや、行くこと自体はかまわん。だが、もう学費はカンベンしてくれ。家、建て直すから。とーさんたちにはもう金が無い」

父親にそう言われてしまった。ある程度は予想してたけど。バイト探さなきゃ。

両親がそろって化学者だったせいで、あたしの名前はリュウエン・リカだ。漢字で書くと「硫塩理化」と、とんでもないことになっている。さらに困ったことにあたしは化学が大好きだ。〇〇大学理学部化学科の硫塩理化。名が体をあらわす、ってヤツですか。違いますね。ちなみに、あたしは身長174cm、体重49kgのキツネ目の女子だ。知ってるだろうけど、女性が自称する49kgとは50kgを少し超えてます、という意味だ。余談はともかく、名はカラダとまるで関係無いな。

学費を稼がなければあたしに明日は無い。できれば製薬会社の開発室ででも働きたいところだが、人生それほど甘くない。たかが大学生ごときを研究員として迎える企業なんて無い。あーあ。

ところが1秒後に何が起こるかわからないのも人生ってヤツだ。どーしよっかなと悩みつつ街を歩いているときに何故か駅前でスカウトされ、あたしはあっけなく職を得た。

SM出張サービスの女王様。フツーのバイトとはお給料のケタが違う。これは凄い。

そんなわけで真夏のクソ暑い夜だっていうのに、あたしは全身レザーで全裸の中年男の前に仁王立ちしている。エアコン効いてるけどね。初日だから研修があるのかな、と思って店に行ったら「じゃ、コレ持ってここに行ってね」といきなり送り出されてしまったのだ。

どうやら実務経験アリ、と判断されたらしいよ、あたし。

渡されたバッグにはレザーの衣装とレザーの道具がいろいろ入っていた。こないだ退職したミカさんという、173cmのひとが使ってたものだそうだ。コスチュームのサイズは問題なかった。だが道具は用途不明のものばかりだ。困ったな。ま、なんとかなるだろう。

あたしの前にひれ伏しているこの男は、けっこう立派な一軒家に住む妻子持ちのくせにマゾだ。いや、家も家族構成もセックスの嗜好には関係ないか。妻子が海外旅行、突然甦った独身生活、永年胸に秘めていた願望が暴走、そんなカンジなのかな。「初めてなんでよろしくお願いします」とあいさつされたけど、こんな言葉で作業を開始するのがこの世界のマナーなんだろうか。業界初心者のあたしにはよくわからない。まあ、シロートのあたしとしては、SMビギナーらしき客に当たってラッキーだったと言えるかも。

あたしはとりあえず男を罵っている。言葉責めっていうのかな。ひとをバカにするのは生まれつき得意なので楽にこなせる。男は泣きそうな恍惚とも言うべきヘンな表情をして聞いてるが、実のところあたしは内心ビクビクだ。ホントにこんなこと言われてうれしいんだろうか。「黙って聞いてりゃいい気になりやがって」と突然キレ出して、あたしに襲いかかってきたりしないんだろうか。

「とりあえずそこに座れ」「もう座ってます」「この薄汚いメチルグリニャールが。座れっていったら正座だよ、正座」

これじゃあホクトアキラのマネだな。ホクトさんはスカっとしてていいよね。でもSMの女王様は快活じゃマズいよなあ。芸風を変えないと。

この後どーやって間を持たせようかなと考えながら、男には正座で黙想してろと命じ、あたしはキッチンに入って行く。持参した道具は使いこなせそうもない。見慣れたものでなんか使えるものは無いかな。特に男の自由を奪えるもの。逆襲される不安を取り除いてくれるもの。あ、あった。

そして今あたしの足元に全身をラップで包装された男が転がっているんです。ラップというものは実は空気を通す。食品をラップしただけで冷凍庫に入れるひとがいるけど、あれは大間違い。酸化しちゃうぞ。ラップでは密封はできないのだ。

そんなことはともかく、いかに空気を通すとは言えラップを顔に巻いたら窒息してしまうので、首から下だけラップ巻きのミイラ男スケルトン・バージョンにしたってわけ。もっとも、蒸気で曇って透明じゃなくなっちゃったけど。人体ってのはいっぱい水分を放出するものだ。

「動いてみな」「動けません」「根性見せてみろ、このテトラヒドロフラン野郎」「まったく動けません」

ホントかな。なんか不安だ。あたしは3人掛ソファをひきずってきて、男の上に置いた。ソファに腰掛けてブーツでも舐めさせようかな、という考えがアタマをよぎったけど、後でブーツを掃除するハメになると気付いてやめた。ともかく男は動けなくなったはず、たぶん。これで一安心。

安心したら飽きてきた。まだ30分もたっていないのか。そうそう、放置プレイってのがあるってことを思い出す。コトバではよく聞くけど、真性SMワールドで通用するものなんだろうか。顧客満足度のアップにつながるかどうかまるでわからないけど、女王様としては楽ができるから魅力がいっぱいだ。いーやいーや、これでいこう。

コンビニに行くことにしたあたしは無言でリビングを出てレザーのコスチュームの上にスプリングコートを羽織る。無言で放置されたほうが不安が増大して喜ばれるんじゃないかな、という配慮である。的外れでしょうか。では行ってきます。

コーラスにYOUにヤングキングアワーズにガンガンと、立ち読みでヒマつぶしをしていたら空が真っ黒になって物凄い雨が降り始めた。あちゃあ傘買うハメになったか、と思ったが、傘をさした通行人が店の中に避難してくるではないか。傘など役に立たないほど激しい集中豪雨なんだ。

これじゃあ戻れっこないよな。そう思って立ち読みを続けようとしてたら店員たちがあわただしく動き出す。なんと店の入り口に土嚢を並べている。まじっすか。うわ、現実レベルの切実な問題だよ。雨量は下水のキャパを大きく上回り道路は川と化している。床上浸水の恐れがあるな。寝たきりのひとには深刻な問題だ。ん。

あたしのお客は今寝たまま動けない状態で放置されている。放置したのはあたし、リカちゃん。やばいっ。

あたしは豪雨の中へ飛び出した。あの男の家、一階が半地下だった。他の家よりも早く被害に遭う可能性が高い。まずい。人殺しになってしまう。急げ。

あたしは走った。雨で前が見えない。川の中を走るなんて生まれて初めてだ。コートの前がはだけて女王様の衣装が露出しても気にしてられない。あと少し、あの角を曲がったところだ。

男の家は池の中に立っていた。あたしの全身から力が抜けていく。これじゃあ軽く50cmは浸水しちまってるだろう。ジ・エンド。

あたしは怖くなった。逃げることにした。しかしできなかった。あたしは黒焦げになって水の中に倒れる。雷雨の中で金具だらけのレザーの服なんか着るもんじゃないね。ソファは水に浮くってことに気付いたとき、あたしはもう昇天していた。

前へ 目次 BBS 次へ
inserted by FC2 system