月までぶっ飛ばして 9 作:まりえしーる 発表日: 2006/01/16 17:30

ここのところずっと外の世界と隔絶された環境での労働を強いられている。早朝から深夜まで。当然ネットへの接続なんて不可能だ。早くホームページの更新をしなくては。ストーリーが充満してアタマがはちきれそうだ。さっさと吐き出して楽になりたい。

そんなわけで今日は昼休みにお弁当を持ってネットカフェに行くことにした。昨日の深夜に電子レンジで作った肉豆腐と八宝菜の残りを食べながら、持参したフロッピー中のテンプレートに身も蓋も無い物語をタイプしてサーバにアップ、ブラウザでアクセスして公開前には気付かなかった誤字を発見しあわてて修正、再アップといういつもの作業をする。アタマが少し軽くなった。でもすぐ次の物語が湧き出してくるんだろう。こわい。

BBSを見ると「作風が変わりましたね」といった意味の書き込みがあってドキっとする。なんだろう。どこで変化を感じ取られたのだろう。でももう昼休みが終わる。悩むのは後回しだ。

ネットカフェの会計を済ませて無人のエレベーターに乗り込む。後から男性客がひとり乗ってきて私は少し緊張する。エレベーターのドアが閉まった途端に、なんとその男が声をかけてきた。

「まりえしーるさんですね?」

私は息を飲む。この見知らぬ男は読者なのか。パーティション越しにディスプレイを覗かれ、正体がバレたのか。まさか数少ない読者のひとりがあの店にいたとは。

私のあわてぶりを、男はイエスと受け止めたらしい。

「いっつも不吉なハナシばかり書いてるから、てっきり〇〇〇な〇のひとだと思ってました。まさか〇のひとだったとはねー。もしかしたら、とは思ってたんですが。ははは」

男には屈託というものが無い。笑顔でよくしゃべる。私はどう対処していいのかまるでわからない。即座に否定すべきだったのか。でもディスプレイを見られてたんじゃ否定しようがない。ネット上で親しくしてくれてるひとかもしれないので失礼な言動は慎みたいという気持ちもある。

「あの、どちらさまでしょうか」。私は思い切って聞いてみた。ハンドルネームを教えてもらえれば、どう応対すべきか態度を決められるかもしれない。

「ROM専なんです。だからまりえしーるさんは僕のことはまったく知らないはずですよ。えーと、そうですね、ケルベスとでも呼んで下さい。実は僕、まりえしーるさんに興味しんしんなんです。ちょっとどこかでおハナシできませんか」

そうですか。

私は腹を決めた。「今は仕事に戻らなくてはいけないので時間が無いんですが、私もゆっくりおハナシしたいです。後ほど会っていただけませんか」「え。いいんですか」「はい。それでですねえ、身勝手なお願いなんですが、誰にも私のことを話さないでほしいんです。まりえしーると会ったとか、こんなひとだったとか、ネットに書いたりしないでほしいんです。知人にバレるのがこわいんで。会ったばかりのひとにこんなことお願いするのもなんですが。そのかわり、この次お会いするときは何をお尋ねになってもけっこうですから。何でもお答えします」「わかりました。絶対誰にも言いませんし、ネットにも書きませんから」「ありがとうございます。では、今夜はいかがでしょう」「今夜。いいですよ」「10時以降になってしまうと思いますが」「かまいません。ヒマだし」「1時間前後のズレがあるかもしれません」「1時間は大きいですね。じゃあ連絡先を教えてください」「すいません、ケータイを置いてきてしまって。ケータイが無いと自分のナンバーもメアドもわからない有様なんです」

私はバッグからネットカフェのレシートとペンを取り出し、「書いていただければ、こちらから連絡します」

男はあっさりケータイ番号を書いてくれた。

「基本的には今夜10時に、場所はこのビルの入り口、ということにしておいてください。5分以上ズレそうなときは連絡させていただきますので」と言いながら私はレシートをバッグに入れ、かわりにアトマイザーを取り出す。

エレベーターから降りた私は風向きに全神経を集中する。よし。「連絡がなかったら予定に変更なし、と判断してください」「すっぽかしはナシですよ」「そんなことは。あ、もし私がすっぽかしたときはネットに私のことを書いちゃって結構です。私にとってはそれが一番怖いことなので、約束は絶対守りますから」「あはは。了解しました」

私は男の頭越しにビルの外壁の看板を指差し、「あの店に行こうと考えています」と言う。男は振り返ってそちらを見る。私は男の首にアトマイザーを向けて、ほんの少しだけスプレーする。

「でも私、ああいうお店にひとりで入ることができないんですよ。気が小さくて。だから、ここで待ち合わせてからということで」「オッケーです」

明るく去っていく男の後姿を見ながら私はため息をつく。こわかった。私はビルの地下に降りて行きトイレで入念に手を洗った。

熱っぽい、とウソをついて私は8時に仕事場を抜け出しレンタカーを借りに行った。

待ち合わせたビルの地下駐車場にクルマを入れた私は、向かいのビルに徒歩で移動する。3階のカフェの窓際の席、待ち合わせ場所が見下ろせる場所を確保し、あの男が現れるのを待つ。約束の時刻の30分前だ。コーヒーの味などまったくわからない。9時間が経過しようとしているが、果たして充分な時間なのか、みじかすぎか。不安でいっぱいだ。どんな様子でやって来るだろう。観察しなければならない。もし来なかったらどうしよう。

「こんばんは」

後ろから声をかけられ私はストールから飛び上がりそうになる。「お仕事早く終わったんですね。僕も早く来すぎちゃったんでここで時間潰そうかなって」。振り返ると屈託の無い笑顔があった。

「あ、きゅ、急に手が空いたんで、今だ、って出てきちゃいました。あー、驚いた」「おどかしちゃいましたか、すいません。どうします、例の店に行きますか」

男はコーヒーの乗ったトレイを持っている。「それ、ゆっくり飲んでくださいよ。とりあえずここでおハナシしてもいいじゃないですか」「そうですね」

あれこれ素性を聞きながら観察していると、男は徐々にだるそうな様子を見せ始める。

「具合、悪いんじゃないですか。風邪でもひいたとか」「あ。すいません。なんか急に熱っぽくなってしまって。ちょっと頭痛がするんですが、大丈夫です」「今流行ってる風邪、タチが悪いみたいです。無理しないほうがいいです。今日はこのくらいにしておきましょうよ。またいつでも会えますから」「うーん、そうですね。そうしたほうがよさそうですかね」「お住まいどちらですか。実は私、クルマで来てるんです。送ります」「え。そんな」「気にしないでください。お近づきのシルシ、ということで」「じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな」

私は男を先導して駐車場に向かう。男をナビシートに座らせながら、「先に住所を教えてください。近くまで行ったら起こして道を聞きますから寝てていいですよ」と言うと、男は素直に答え、そしてあっさり眠りに落ちる。

私はクルマを走らせる。都内から脱出したあたりで胸にたまった苦々しい思いを吐き出さずにはいられなくなる。

「まったく、もう。あんたが悪い。ひとのディスプレイなんて覗くからこうなるんだ。手間かけさせやがって。あたしはまりえしーるなんかじゃないんだよ。あんたを今からホントのまりえしーるのところに連れてってあげる。隣に埋めてやるよ。今から行くのは富士の樹海だ。まりえしーるはそこにいる。あたしが埋めた。忘れたいのに思い出させやがって。またあたしにスコップを買わせやがって」

私は木立の中にクルマを停め、苦労しながら男を引きずって森の奥に入っていく。確かこのあたりだ。私はスコップで穴を掘る。生きているのがイヤになってくる。じゃあなんでやめてしまえないんだろう。

ようやく十分な大きさの穴が掘れ、一息ついたところで私は星を見た。夜空を見上げたんじゃなくて、アタマの中を閃光が走ったのだ。ヒザから穴の中に崩れる。後頭部を強打されたようだ。さらにもう一撃。私は前のめりに倒れる。

穴のふちに男が立っている。そんなばかな。

「昼間のスプレー、硫酸ジメチルだったな。気付かなかったと思ってたか。俺も化学屋だよ。残念だったな。昼間あんたと別れた後すぐに服脱いで研究室に戻って分析器にかけたんだ。おっかねえモノ持ち歩きやがって。濃度は薄かったけど少しは吸っちまった。でもあいにくまだ発症してねーぜ。演技だよ、演技。ばーか」

ばれていたのか。

「なんでこんな試薬使うのかなって考えた。時間差発症するクスリなんてさ。そっか、街中で俺に死なれちゃ困るのか。夜になって俺がおかしくなってから、じっくり何かする気なのかってわかった。思ったとおりだったな」

そのとおり。

「俺は殺されかかったのは初めてだ。ムカつくもんだな。こんなに誰かを憎んだことはないぜ。ケーサツに突き出そうかとも思ったんだが、そんなんじゃおさまらねーよ。俺があんたを埋めてやる。せっかくあんたが苦労して掘った穴だもんな。使ってやるよ」

男はスコップで私に土をかけ始める。私はもう目を開けていられない。

「あんたのバッグにあのレシート入ってたな。あれさえ処分すれば俺とあんたの接点は完全に無くなるんだ。クルマはテキトーに乗り捨てておきゃ、あんたはただの失踪者だ。俺のところまでケーサツは辿り着けるはずがない」

しかし、この男は知らない。ホームページの更新が1週間以上滞ると、まりえしーるの知人が捜索願を出す、ということを。誰も行方を知らないまりえしーるの生存を証明するものはホームページの更新だけだってことを。ひとたび警察が動き出せば、いずれ私は捜査対象になる。そして今日の目撃情報から必ずお前のところへ警察はやって来る。警察の追及から逃れたければ、まりえしーるのフリをして死ぬまで不吉な物語を書き続けろ。

そのとき、長いこと私の中に住みついていた何かが、すうっと抜け出して行くのを感じた。次の宿主を見つけたか。脳を圧迫していた無数の邪悪なストーリーが消え失せ、私は安らかな眠りにつくことができた。ざまあみろ、今日からお前がまりえしーるだ。

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