月までぶっ飛ばして 8 作:まりえしーる 発表日: 2006/01/11 17:00

俺が料理好きなのを知っている知人がコメを送ってきてくれた。最高のコシヒカリだそうだ。これはたまらない。

「おい、明日は水を取りに行くぞ」「水?」「そうだよ。このコメにふさわしい最上級の名水を用意しなきゃな」「スーパーで買えば」「何言ってるんだ、あんなペットボトルに入った出所もはっきりしない水なんか使えるかよ。ちゃんと湧き水をこの手で汲み上げてこそ、このコシヒカリと向かい合えるってもんだ。ポリタンクあったよな。洗っておいてくれ」

明けた日曜の朝、ムスコを少年サッカーの練習に送り出してから俺と妻は〇〇県〇〇山のふもとを目指してクルマを走らせた。

「帰りに〇〇和牛のサーロインを買おう。今日の夕食は俺が作るからな。ムスコは何時頃帰って来るんだっけ」「・・・」「なあ」「あ、ごめん」「何時頃に晩メシが出来てりゃいいんだ」「え。いつでも」「いつでも、ってお前、サッカーでハラ減らして帰って来るんだろう」「誰が」「ふう。七時くらいに食えればいいな。いやあ、楽しみだなあコシヒカリ。やっぱコシヒカリだよな」「・・・」「お前、コメはどれが好きなんだ?」「・・・」「こないだの『つがるロマン』はどうだった?『ほしのひかり』もうまかったな。水も良かったしな。水との相性ってデカいな。なあ、お前はどの組み合わせが良かった」「無洗米と浄水器の水」「無洗米ってのはブランドじゃないぞ。まったく。サブアリューロン層まで削っちまったコメだ。お前はホント、料理に無関心だな。料理は愛情だぞ。まいーや。今夜は俺が愛情たっぷりの料理を作るから」

妻の気持ちはFMから流れるスムースジャズに捕まっているらしい。デイブ・グルーシンのプレイに聞き惚れるのはかまわないが、もう少し料理に気を配ってもらえないものだろうか、といつも思う。食は生活の基本だろうが。

目的地に到着した俺は、クルマに妻を残しポリタンクをぶらさげて水汲み場に歩いていく。地元のひとたちに混ぜてもらいタンクをいっぱいにした。隣のおばちゃんに今この辺りでおいしい野菜は何で、それはどこで買えるかなどを教わってクルマに戻る。帰りの寄り道スポットが増えた。楽しい。

教えてもらった野菜を買った後、〇〇和牛の専門店に入る。「見ろよ、この肉。お前の好きな切り落としとは全然違うだろ」「・・・」「保存がきくもんならば大量に買って帰りたいよな。宝の山だ」「ここ、寒いね。クルマに戻ってるわ」「あっそ」

愛し合って結婚したはずなのに。世間の夫という動物に比較すると、俺は家事だって相当協力している。休日には豪華なディナーを作ってるぞ。今日だってそうだ。なのに妻のあの態度。俺は感謝され愛され賛美され労われるべき亭主じゃないか。面白くない。いつからこうなってしまったのか。

高価なサーロインを三枚買ってクルマに戻ると、珍しく妻から話しかけてきた。

「あ、そーいえば、さっきのとこよりずーっとおいしい水が出る場所があるんだって」「なんだって」「その先を左に行くんじゃないかな。山の中」「どうしてそんな所を知ってるんだ」「テレビの温泉番組で見たの。速水もこみちの湯煙くいしんぼう紀行ってやつで」「ポリタンク、もうひとつあったな」「行ってみる?」「逃すわけないだろ」

ポリタンクを二つ持ってきてたんだが、使い切れない量の水を持ち帰っては申し訳ない気がしてひとつだけ水を詰め込んだんだ。もうひとつ、カラのタンクがある。さっきの水汲み場は便利だからひとが集まるが、山の上の水のほうがよりおいしいはずだ。行ってみよう。

「ここで道が終わってるな」「そこの山道を歩いて行くの。ちょっと待って。水筒にさっきのお水入れて持って行きましょ」

今日の妻は妙に気が利く。土地勘もあるようだ。こいつもようやく俺の趣味に合わせてくれる気になってくれたか。努めてポジティブに振舞ってきた俺の気持ちにようやく答えてくれるようになったか。

俺たちはクルマを降り、山道を歩き始めた。俺はカラのポリタンクを、妻はバッグと水筒を持って。女はどうしていつでもどこでもバッグを持ち歩くのか、いまだに俺にはわからない。別にわかったところで俺の人生が豊かになるわけでもないけど。

10分ほど歩いたが、水の音はまったく聞こえてこない。慣れない山歩きで疲れを感じ始めた俺は不平交じりで妻に言う。

「まだか。道はホントにこっちでいいのか」「あと少しよ。ハヤミくんはさっそうと歩いてたな、この道」

俺は汗をかきながら登った。くそ。誰だハヤミって。負けるか。

「あ、マツタケ」。妻が道から少し外れた場所を指差して言う。「なにい、マツタケだと」「ほら、あそこ」

これは夕食にさらなるイロドリをプラスできるチャンス、と俺は腰をかがめて妻が指す方を覗き込む。そのとき首筋に刺激を感じ、俺の意識は飛んだ。

目を開いたとき、木々の間に冴え渡る青空と、美しい妻の顔が見えた。

「お目覚め?」「あ。ああ。何があった。俺は寝てるのか」「そうみたいね」

鼻に違和感がある。黄色いモノが鼻にくっついるのが見える。見覚えがあるな。ああ、家にあった荷造り用のガムテープか。え。ガムテープ?

「ノド、渇いてるでしょ」と言って妻は水筒の水をカップに注ぎ始める。確かに、と思いカップに手を伸ばそうとするができない。俺は両手両足を動かすことができない。どうしたわけだ。

「動けない」「ホント?ああ、テープ巻いたからね、腕も足も」「なんで。誰がやった」「水、いらないの」「答えろ」「この水筒で足りるのかな。ちょっと心配」「答えろって」

「まあまあ。とりあえず水どーぞ」と妻は俺の口元にカップを持ってくる。俺もとりあえず、と首をあげカップに口を近づける。妻が俺の後頭部に腕をまわして支えてくれた。やさしいところがあるなあ。

すると妻は突然俺の首をのけぞらし、大きく開いた俺の口にカップの水を流し込んだ。うわっ。すると妻は両手で俺の口を塞ぐ。妻がこんなに力強いとは。ガムテープで鼻をふさがれて呼吸ができない俺はあえいだ。水を飲み込もうとするが咳き込んでしまう。どうしても水を食道に逃がすことができない。肺に水が。

「ひとはわずかコップ一杯の水で溺死する、って聞いたことあるんだけどホントかな。実は半信半疑なのよ、あたし。ああ、でもけっこうホントっぽいね」

俺の頭部を後ろから抱え込んでいる妻が醒めた声で話しているのが遠くから聞こえる。俺は身をよじらせるが妻の腕から脱出することができない。

「ねえ、『男の料理』ってフレーズ知ってる?女が『男の料理』って言うとき、どんな意味で使ってるか知ってる?予算も時間も無制限で、ばかみたいに高い食材揃えて。年に一度くらいしか使わない調理器具もいっぱい集めて。大仰な調味料ふんだんに使って。料理が終われば信じられないくらいたくさん洗いものとゴミがキッチンに溢れてて。そりゃあおいしいものができるでしょうよ。何もしなくたっておいしい食材使ってるんだから。手を加えないほうがいいくらいよ。そりゃあ楽しいでしょうよ。子供も大喜びよね。あたしはね、時間も予算も限られた中で食事を作ってるのよ。鮮度の落ちた安っぽい切り落としの肉を買ってきて、なんとかおいしく食べられるモノに加工してるのよ。料理終了と同時に洗いものも終わるようあれこれ工夫してやってるの。冷蔵庫に残った食材で献立を考えて作ってるの。わかるかな。あなたのは趣味。あたしのは生活なのよ。料理は愛情ですか。趣味の愛情は子供にもわかりやすくていいわね。生活の愛情は地味なもんよ。誰からも感謝されやしない。あなたがせっかくの高級食材をだいなしにするような料理ばっかりしててもあたしは何も言わなかった。それが料理に無関心に見えましたか、ダンナさま。あたしに同じ条件で料理させてくれれば、高級食材のホントの味を教えてあげられたのにね。教えられずにお別れとは残念ね。ふふふ」

俺には咳き込む力も無くなってきていた。

「でもさあ、よかったじゃない。これ、浄水器の水じゃないからね。あなたの好きな日本の名水だからね。ま、あたしからあなたへの思いやりってことで」

俺の生命の火は消えようとしていた。

「あ、そうそう。あなたが料理したがるときって、決まって浮気してきた日の翌日よね。あれはなんでだったんだろ。プラスマイナスゼロになるとでも思ってたのかな。あたしにはそこらへんの発想がまるで理解できないんだけど、残念、これは謎のままだね。ま、別に知りたくもなかったんだけど、さ」

高い木の上から見下ろしていると、妻は俺を束縛していたガムテープをはがしてから、なんと俺を背負ってクルマまで戻っていった。あいつにこれほどの体力があろうとは。その後深夜までクルマの中で仮眠を取った妻は、おもむろにクルマを走らせた。霊になりたての俺は苦労しながらクルマの後を追った。息を切らしてようやくクルマが停まっている場所に辿り着くと、ちょうど妻が俺を捨てたところだった。俺は片手にカラのポリタンクを持ち、顔だけ水汲み場に突っ込んで横たわっていた。

お迎えが来ちゃったんで、俺にはクルマのブレーキ油圧をゼロにするくらいのことしかできなかったのが残念だ。確かに限られた時間の中で何かを成し遂げることは大変だな。


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