月までぶっ飛ばして 7 作:まりえしーる 発表日: 2006/01/10 13:00

朝起きたらベッドが髪の毛だらけになっていた。なんだこりゃあ。カットされた短い毛が枕周辺に散乱しているのだ。1cmくらいの髪の毛。あたしは恐怖で声を上げそうになり、手で口を塞ぐ。じゃりっ、という感触。手のひらを見ると毛だらけだ。あたしは洗面所に駆け込む。そして鏡の中の自分の姿を見て戦慄する。

前髪がカットされている。そして顔中に切られた髪がくっついている。

しばらくの間あたしは洗面所に立ち尽くしていた。ヒザの震えが止まらない。睡眠中に誰かが侵入してあたしの髪を切ったのか。いったい誰が、なんのために。その時あたしは恐ろしいことを思いついてしまった。ま、まさか、そいつはまだ家の中にいるのでは。

あたしは玄関に走りゴルフバッグからアイアンを抜き出しながらドアのロックを確認する。昨日帰宅した時施錠したままの状態だ。ドアガードも掛けられている。侵入された形跡は、玄関には見当たらない。

動揺のあまり何番だかもわからないゴルフクラブを両手で構え、あたしはマンションの点検を始めた。侵入者がいたとしたら、これは無謀な行動だ。一刻も早く家から逃げて交番へ行くべきかもしれない。でも何が起こっているのかまだよくわからないんだ。夢であってほしい、夢なんじゃないかな、もうすぐ醒める夢なんだよ、きっと、という思いもある。

すべての窓と部屋を見てまわったが、幸い異常は確認できなかった。でも、幸いと言っていいんだろうか。大きな謎が残ってしまい、気持ちが晴れない。

誰があたしの髪を切ったんだろう。こわい。侵入者のせいにできたほうが良かったかもしれない。

冷静になろう。一番簡単な説明は、あたし自身が切ったってことだ。なんか寝ぼけちゃってさあ、ばかだよねー、あはは。

ありえない。

でも本当にありえないと言い切れるだろうか。最近よくモノを落とすし固有名詞が思い出せないことも多い。大丈夫か、あたし。昨夜のあたしは酔っ払っていたか。ノン。酒など飲んでいない。するってえと、あたしは。

夢遊病。

あたしはCDラックからパティ・スミスの「ラジオ・エチオピア」を引っ張り出す。裏ジャケットに「これは眠りに就いたのとは違う場所で目覚めるひとたちのためのアルバムです」と書いてあったのを思い出したからだ。だからなに。要は、この一文があたしが所有する夢遊病に関する唯一の情報だってことだ。つまり、何も知らない。

ネットで「夢遊病」を検索してみる。出るわ、出るわ。どうやら夢遊病という現象は、あるタイプの人々にファンタジックなイメージを強く喚起させるらしい、ということがわかった。今のあたしには無用の情報ばかり。「睡眠障害 夢遊病」で検索しなおすと、ようやく医学的な情報がたくさんヒットしてくれた。

結論。医者に行け。

いや、まだ早いだろう。あたしはとりあえずシャワーで髪の毛を洗い流し、それからベッドの掃除に取り掛かった。

次の朝目覚めると、またしても前髪がカットされていた。コケシのような髪型になってしまった自分の姿も悲しいが、それよりもなによりも怖い。霊?地縛霊?前の住人?いや、ここは新築だ。

その夜あたしはハードディスクレコーダに接続したビデオカメラをベッドに向けてセットした。睡眠中に何が起こっているのか撮影してやる。知るのも怖いけど知らないでいるのはもっと怖い。

結論。照明つけっぱなしにしていたら明る過ぎて朝まで眠れませんでした。前髪は無事だったけど眠れないのは困る。こんなことが続いたら睡眠不足とストレスであたしは死ぬ。

ネットで暗視カメラのことを調べてみると2万円台でかえることがわかった。通販でモノが届くのを待つ余裕などないのでアキバに出かける。エレベーターの無い細いビルの五階まで階段をぐるぐる昇ってアヤシゲな店に入り、赤外線照射で真っ暗闇でも撮影できる暗視カメラと、せっかく来たんだからという自分でもよくわからない理由で盗聴器とビデオスタビライザーも買った。使い道無いけど。

翌朝起きるとベッドは髪の毛だらけだった。とゆうことは昨夜の一部始終がハードディスクレコーダの中に収まっているわけだ。あたしに起きている怪奇現象の真相がついに白日の下に。

レコーダ再生のためにテレビをオンにすると朝のニュースをやっている。外部入力にチャンネルを変えようとしたとき、画面にあたしのマンションが映っているのに気付く。なんだなんだ。本日未明若い男性美容師が飛び降り自殺しかも歩行者巻き添え?そういえば外がめちゃくちゃ騒がしいな。

「この男性は最近知人に『夜な夜なバケモノに連れ出され、ヘアカットをさせられている』などといった意味不明の悩みを相談していたそうです。来年独立することを計画していたこの男性は、そのプレッシャーによるストレスからなんたらかんたら」

なにそれ。

あたしはレコーダを再生してみる。暗視カメラのモノクロ映像の中であたしはよく眠っている。早送り。4倍、8倍、あ、動いた。なんと、あたしが起き上がってベッドから出て行くではないか。これだけであたしは絶望のどん底に叩き落されてしまった。後は見なくてもいい。もう、いい。もうたくさんだ。でも停止ボタンを押すことができない。

5分後くらいにあたしがカメラのフレーム内に戻ってくる。男性がいっしょだ。さっきニュースで見た顔写真の男のようにも見える。あたしはベッドに横たわり、男の持つハサミに身を任せている。

こんなのって。

あの若い美容師には申し訳ないことをしてしまった、と思う。でもあたしにはもっと衝撃的なことがあって、正直彼のことなど考える余裕は無い。

確かにあたしはスノボで滑走中にヘアピンが外れて前髪に視界をふさがれコースアウトして崖から転落したんだけど、ここまで短くする必要なんてなかった。未練というものは恐ろしい。睡眠中にベッドから起き上がって出て行くあたしの映像には、足が無かった。


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