ジンクフィンガー その1 作:まりえしーる 発表日: 2005/11/29 18:00

スペクトル予測プログラムがとんでもない結果を吐き出した挙句にフリーズ。カイエはため息をついて研究室の灰色の天井を仰ぐ。まだバグがあるらしい。今まで使ってきたデータの信憑性が揺らぐようなバグじゃなけりゃいいけど。もしそうだったら2ヶ月間の努力がパーだよ。

見えない未来を心配しててもしょうがない。カイエはアタマを振って今すべきことに集中することにした。

予定していたシリコン基盤とペプチド錯体の共有結合実験は明日以降に延期しなくちゃ。なんとか日付が変わるまでにバグを退治してやる。カイエはディスプレイを凝視しキーボードを叩き始めた。

エラー発生の原因を突き止めたときには深夜になっていた。その場しのぎで使った変数が特定の条件下で必ずオーバーフローする。後でちゃんと書き直そうと思ってたのに、仮で書いたコードがなまじうまく動いてしまったものだから、演算結果の検証に夢中になってそれっきり書き直しを忘れてたんだな。つまらないミスだ。ミスはすべてつまらないものなんだから当たり前か。疲れた。自分の手抜きに復讐されるのは将来の自分、ってことを再確認しただけの日だった。でも研究室で朝を迎えることにならずにすんだのは不幸中の幸いかも。今日はもう帰ろう。

「カイエ、帰るの?」

荷物をまとめていたら声をかけられた。研究室の奥に置かれた分光器の後ろから疲れた顔がのぞいている。「あれ、リンコ。いたんだ」「はぁ?ずっとここにいたずら。あたし存在感ないのかな。ね、終電乗り遅れたんだ。泊めて、お願い。つーか最初から泊めてもらうつもりで残ってたんだけどさ」「今夜はカレシ来るから却下」「ジョークは笑えるようなヤツにして。疲れてるんだから」「む。ひとの都合も確認しないで、よく終電スルーできるね。実際さあ、あたしの部屋にオトコが来るとか、そんな可能性とか考えないわけ」「ありえないもん、カイエの部屋にオトコが来るなんて」「ひどいな。高校の頃はモテモテだったんだよ、あたし」「はいはい。あとでいくらでもあやまるから泊めて」「「ま、いーか。疲れて怒る気力も無いや。帰ろ」

「ハラへったー」「同感」。カイエとリンコはひとけの無いキャンパスを後にした。「あたしも一人暮らし始めよっかなー。終電を気にしながらの生活にはもーうんざり。カイエみたく這って帰れる部屋がほしいよ」「研究室に住んじゃえばいいじゃない」「それだけはイヤ。最後の一線だけは越えさせないで。おヨメにいきたいのよ、あたし」「あはは。野心家だね、リンコは」

「コンビニでお弁当かなんか買ってく?」「ネガティブ。スーパー行ってキャベツ買う」「なんで」「晩メシ作るから。一時間ガマンしなよ」「今から作るの?カイエ、タフだね」「今日使いきりたい食材があってさ。明日は帰れるかわかんないし。豚バラ消費するの手伝ってよ」「一時間かよー」「じゃあ30分に短縮しよう」「んじゃ、待つ」「待つだけかよ」「カイエ研究員の実験を邪魔しちゃあ悪いから」「実験って言わないでよ。料理って呼んで」

炊飯以外のすべての料理を電子レンジだけで行うカイエの姿は、リンコの目には研究室での作業の延長にしか見えない。

24時間営業のスーパーでキャベツと豆腐を買い、部屋に帰ったカイエは淡々と料理を開始した。無洗米と水を炊飯器にセットし、ビーカーに味噌と粉末だしの素を入れ水で溶き、スプーンで分解した豆腐を投入してから電子レンジで加熱を開始する。

「ビーカーで味噌汁。カイエってホント、理系女だよなあ」「誹謗中傷は味見してから言って。そーだ、リンコ先にシャワー浴びてくれば」「今日はいーや」「理系女だなー、リンコは。しゃんとしよーよ」「カイエは」「ごはん食べたら浴びるよ。アタマくさいとモテないよ、って小さい頃母親によく言われた」「そんなキホンとも言えないような当たり前のことをわざわざ娘に」「ウチの家系は遺伝的にモテモテ、かつ理系なの」「遺伝的理系女。おえっ。そのキャベツ使って何作るの」「豚バラがあるからホイコーロにするんだ」

カイエはキャベツの葉をむき始める。その時キャベツの中から何か小さなものがシンクに落下して金属音を立てた。

「ん?」「なんだこりゃ」

それは指輪だった。


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