月までぶっ飛ばして 2 作:まりえしーる 発表日: 2005/12/27 13:00

あなたの精液、もらえませんか。

旅先で偶然出会った高校時代の同級生は突然そんなことを言い出した。

俺は大学二年生。本当は三年生になっていなくてはいけないんだが、二年生になったばかりの頃からアパートに引きこもるようになってしまった俺は、以来大学にはまったく顔を出さず、当然のことながら単位が不足して留年、現在に至る。

引きこもりになった理由は自分でもはっきりしない。なんとなく、気分で。別に外の世界や他人が怖いわけではない。ただ、なんか、わずらわしい。それだけ。特に努力しなくてもコンビニにだって本屋にだってアキバにだって出かけていける。普通だ。俺は普通なんだ。ただ他の連中よりも少しだけ、部屋で過ごす時間が長いだけさ。引きこもらない連中はみんな、自分の部屋があんまり快適じゃないんだろう。少なくとも俺の部屋ほどは。

ところが最近アパートの上階に、貧乏夫婦しかも複数の子持ちというやつらが転居してきて、俺の快適引きこもりライフに危機が訪れた。頭の上でガキどもが暴れるんで騒音がひどい。しかもこいつらは就学年齢に達してないらしく一日中部屋にいやがる。この家族が沈黙するのは借金の取立て屋がやってきてドアを殴りながら大声でがなり立ててる間だけだ。つまり、上の部屋は終日うるさい。

俺の予測では、上階の家族は一ヶ月以内に夜逃げか一家心中のどちらかで騒音を立てなくなる。親が送ってくれた教科書代に手をつけず取っておいたのは何のためだったのか。そう、こんな時旅行をするためだろう。

俺は数日分の下着をつめたバッグひとつで東京駅に向かった。知り合いがいなさそう、というだけの理由で北の方へ行くことにした。何週間かぶらぶらしてみるつもり。予算の関係であんまり遠くまでいけないけど。

で、歌詞で聞いたことがある程度の知識しかない街に来た。しばらくはここに滞在してみよう。最近の地方都市はでかくておしゃれだな、などと思いつつ市内を探索し始めた矢先、なんと高校のときの同級生に出会ったってわけだ。

「モトイくん?」

自分の名前を呼ぶ声を聞いて振り返ると、高校で二年間同じクラスだったナルセさんがいた。彼女がこの街にどうして、と驚く。一年以上引きこもりを続け、ほとんど知人に会わずに過ごしていたこの俺が、エンもユカリも無い土地に来たとたん旧友に出くわすとは。

「そこらでお茶でも」とナルセさんに誘われ、俺たちはカフェに入った。俺のアタマの中を様々な想念が乱舞する。

高校時代のナルセさんは、派手に遊びながらも成績はトップクラスという俺の苦手なタイプの女子だった。高三の途中で転校していったから、その後の進路のことはまったく知らない。聞くと現在はこの街にある国立大学の理学部化学科三年生だという。

「高三の時、ここに引っ越したの?」「ううん」「へ。じゃあまたなんでこの街に」「偶然って凄いよね。こんなところでムカシのトモダチに出会っちゃうんだから」「偶然だよねー」「転校してから、あのガッコのひとに会ったことないんだー。モトイくんが初めてだよ。なんか懐かしくてうれしー。同窓会とか興味なかったんだけど、なんか、やっぱいいよね、トモダチって」

はぐらかされたような気もするが、ナルセさんの笑顔を見てたらどうでもよくなった。考えてみれば俺も、旅に出た経緯とか、この街を選んだ理由とか聞かれても、聞いてて楽しい答えができそうもないし。

それにしてもナルセさんは地味になった。メイクも髪型も服装も控え目になった。実は清楚で可憐なひとだったと知って、俺は内心うれしい。きれいだな、ナルセさん。

「大学で何やってんの」と尋ねると、ナルセさんは少し困った顔をしてから、「機能性人工蛋白質の研究、ってやつなんだけど」と答える。俺は「あ、そう。ところでさあ」と話題を変える。ナルセさんは誰かに自分の研究のハナシをして、そこから会話が膨らんだって経験が無いんだろうな、それで困った顔したんだろうな、と俺は想像する。まあ、ほとんど誰もが「ムズカシそうだね。ところでさあ」って言うよな、きっと。

研究の世界に引きこもっている彼女の孤独を、俺は見た気がする。高校時代と比較すると野暮ったくなったナルセさん、はにかんだような表情を初めて俺に見せたナルセさん。俺の中で勝手なナルセさん像が凄い勢いで再構築されていく。

「ねえモトイくん、ちょっと街を案内しよっか。あたしの好きな場所があるんだ」

俺はナルセさんに連れられて爽やかな風が吹く街を歩いた。なだらかなスロープを登っていく。ナルセさんの長い髪が風とたわむれ、時折リンスの香りが俺を包む。手を握りたい、と強く思う。高校生の頃にこんな場面があったらな。人生少し変わっていたかも。

「ここだよ」。俺たちは市内が見渡せる丘の上に着いた。

「この街で一番有名な場所なんだけど、平日は観光客もほとんどいなくて落ち着けるんだ。あたしはよくひとりでここに来るの。てゆーか、誰かといっしょに来たのは初めて」

ナルセさんはそう言って恥ずかしそうに微笑む。スミレみたいなひとだな、と俺の感情は暴走し続け止まりそうもない。今惚れてどうする、と理性が叫ぶが俺は聞いちゃいない。恋愛の前に合理性は無力だ。

来てよかった、この街は美しい。青空の下をたおやかに流れる川。遠くの山並み。俺の隣にいてくれるナルセさん。甘く酸っぱい気持ちが俺の胸をしめつける。俺は今普通じゃない。

「モトイくん、どうしてこの街に来たの」

そんな質問にも俺は真摯に答えようという気になってしまう。

「なんとなく。俺、大学にも行かず部屋に引きこもってたんだ、この一年くらい。誰とも連絡もとらず過ごしてて。特に理由もなくふらっと出てきたんだけど、そこでナルセさんに会うなんて、ね。なんか外っていいな。新しい世界が目の前にぱあっと広がったよ」「誰にも何も言わないで出てきたの?」「うん」「キミがここに来てるってことを誰も知らないの?」「うん。そーだけど」「モトイくん、ケータイは?」「持ってきてない。そもそも一年以上充電すらしてない。けど、どーして?」「うん、なんてゆーか。モトイくんの気持ちがわかる気がするから。自分だったら誰にも言わないで旅に出るだろうなって思って。モトイくんもそうだったのかなって、ホントにあたしと同じ気持ちなのか知りたくて」

俺は感情が抑えられずナルセさんの手を握る。拒否されない驚きと喜び。自分にも生きる価値があるのかも、そう思えてくる。

「モトイくん、あたし、実はこーゆーの慣れてないんだ。高校の頃は遊んでるように見られてたけど、ホントは違うんだよ。わかってもらえないだろうけど、どきどきしてる」

俺はまともにナルセさんの顔を見ることができない。中学生みたいだ。次の一手というものが壊滅的なまでに思い浮かばない。

俺が黙っていると、ナルセさんは恥ずかしそうに言う。

「あのさ、モトイくんの、せっ、精液を、もらえないかな」「はいぃ?」「あ、ああ、あのね、そーゆーんじゃなくってえ、研究の、さっ、サンプルに。だから、なんてゆーか、ただ欲しいってんじゃなくて、その代わりって言っていいのかな、あーもーちがう。だからー、あのね、言うね、あたしのー、膣を使っていいから」

俺はナルセさんの真っ赤な顔を凝視してしまう。ななななななんなんですか、この申し出は。ナルセさんはうつむいて固まっている。

これは、空前絶後のトンデモフレーズではあるが、この、ひとづきあいが不器用な研究一筋の女性が、不器用なりに精一杯考えた末に生み出した、超々遠距離射撃の如き婉曲求愛表現なのではないだろうか。もしそうであるならば、彼女の勇気に答えずしてなにが男であろうか、と俺は意志を固める。

「よっ、喜んで提供するっ。ど、どこに行けばいいかな」「え。じゃ、じゃあ、あたしのアパートに。いいの?ホントにいいの?」

拒絶する理由などどこにあるというのだ。俺は彼女の部屋まで付いていった。部屋に男性を入れるのは初めてだから、と彼女は神経質そうに周囲をうかがいながら俺を招き入れる。ひとに知られるのが恥ずかしいのか。そんな新鮮さが俺にはうれしかったりする。

「ビール、飲む?」「え。あ、ああ、いいね。いただきます」

ナルセさんのこれまでの言動と、冷蔵庫にビール所有、という生活習慣にちぐはぐさを感じつつ、俺はビールをグラスに注いでもらっている。飲みすぎるなよ、失敗しちゃうぞ、という気持ちと、少し酔って緊張から解放されたい気持ち、ともに我にあり。

ところが酔いは唐突に俺を襲ってきた。世界が揺れ、それから回り出す。あれ?

「モトイくん、この街に来ることをホントに誰にも言ってないんだよね」「うん」「この街であたし以外の知り合いに会ってないよね」「うん」「ケータイをこの街で使ったりしてないよね」「うん」「ホテルにチェックインなんてしてないよね」「うん」「どっかで名前や住所書いたりしてないよね」「うん」

なんでそんなに細かいことを、と思いながら俺は手を伸ばしてナルセさんを抱き寄せようとする。ナルセさんはあからさまな嫌悪を顔に出して俺を驚かせるが、思い直したように「でもカワイソーだから胸くらい触らせてやるか」と言い、俺の手を左の乳房に導く。しかしその感触が脳に届くよりも早く俺の手は振り払われる。「これでおしまーい」

ナルセさんはバッグからケータイを取り出してから立ち上がり、どこかに通話を始める。

「素体を入手しました。健康そうな男子です。今眠らせました。足跡は問題なしです。そうですね、洗濯機のハコで搬送可能なサイズです。はい、今自宅です。お待ちしております」

ナルセさんは満面の笑みを浮かべて俺を見下ろす。

「モトイくん、ありがとうね。これであたしもポイント稼げるわ。感謝して使わせてもらうから。絶対無駄にはしないからね、キミのカラダ。安心して」

そんな言葉を聞きながら俺は眠りに落ちた。


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