月までぶっ飛ばして 1 作:まりえしーる 発表日: 2005/12/26 16:00

夜遅い時間、見込みの無い商談に続く抑揚に欠けた接待を終え、あなたはホテルに戻る。今部屋に入ったところだ。永遠に続くかと思われた一日がようやく幕を閉じる。しかし明日も別の相手と同様の行為を繰り返さねばならない。仕事とはそういうものだ。

明日午後の訪問にどう備えるべきか、あなたは考える。昼までたっぷり眠る、それこそがベストだという結論に達したあなたは部屋のドアノブに「起こさないで」のフダを掛け、ようやく落ち着いた気分になる。

ベッドに横たわって天井をながめながら、あなたは先刻まで同席していた相手の顔を思い出そうとするがうまくいかない。不意に安ウイスキーの味が口内に甦り、あなたはトイレに向かう。ついでにシャワーも、と思ったあなたは身に付けているものをひとつずつ床に落としながら歩く。全裸で便座に腰掛けたあなたは、胃液の逆流と前立腺肥大の間に因果関係はあるだろうか、などという不健康なテーマを真剣に考えている自分に気付き唖然とする。自分の中で老いが目を見張るようなスピードで成長している。将来のことを考え暗澹とした気分になる。これまで自分の楽天性を支えていたのは、若さという得体の知れない暗示に過ぎなかったのか。

トイレとバスが一体になっていなかったことにもあなたは驚く。独立した狭いトイレだったなんて。確か一体だったはず、いやそんなことはなかったかな。取るに足らない些細な事を誤認する自分の脳への疑惑がまたひとつ。

水を流しレバー型ドアノブを押し下げるが、手ごたえの無さがあなたの神経を逆撫でる。崖から転落せんとする刹那に掴んだ木が、実は地中に根を張っていなかったことを知るような肩透かし感。あなたの手にはドアから離れたドアノブが、そしてドアノブがあった場所には空虚な穴が。

ドアノブを締め付けていたネジがはずれ、シリンダーシステムから脱落してしまったのだ。ドアの向こう側にはドアノブのもう半分が落下しているのだろう。はなればなれ。

不憫なやつだ、と手の中のドアノブを見て笑っていたあなたの顔は、ドアが開けなくなったことを認知した途端凍りつく。

ドアを叩く。びくともしない。ドアノブの穴に指を突っ込もうとするが狭すぎてシリンダーには届かない。安ホテルめ。こんな宿を手配しやがって。経費節約がどれだけ作業効率を落としているのかを経営者は知るべきだ、とあなたは憤る。ホテル代や特急指定席のランクごときの小事にかまけず、トータルのスループットを見据えて予算を組んでくれ。こんなバカな話で睡眠時間が削られ明日の商談に生気の無い顔で出向き結果不首尾に終わる、そんな負のサイクルに自分からはまり込んでどうする。失敗というものはすべて前日から始まっているのだ。

しかし今考えるべきことはそんなことではない、とあなたは思いなおす。「起こさないで」のサインをドアに掛けたことが悔やまれる。最悪明日の昼まで幽閉状態は続く。トイレの心配が無いのは不幸中の幸いか。いや、不幸は不幸だ。あなたは大声で助けを呼ぶ。反応というものがまるで感じられない。物音で隣室の客の安眠を妨害すれば、苦情を受けたホテルマンが来てくれるかも。あなたはドアノブで壁を強く殴り始める。が、二分もしないうちに手が疲れて断念する。このフロアに宿泊しているのは自分だけかも、という想像があなたから力を奪おうとする。だったら下のフロアに届け、とばかりに床を強く踏みつけてみる。すると意外な感触が足の裏に。

最後に脱いだドレスシャツが足元にあった。俺ってこんな順番で服を脱ぐのか。あなたは自分の意外な一面を知り感心する。そして自分の置かれた状況を思い出し、そんなことに感心している自分を嫌悪する。シャツを拾い上げると胸ポケットにライターが入っていた。こいつを踏んだ感触だったのか。俺は武器を得た、とあなたは105円ライターに勇気づけられる。こんな日が自分にやって来るとは。あのタバコ屋のおばちゃんに「おかげで助かっちゃったよ」なんて声かけてやろうかな。変な顔されるだけか。

あなたはライターの使い道を考える。天井を見上げるとそこには火災探知機らしきものが。警報を鳴らせばホテルマンが飛んで来てくれるだろう。大騒ぎになるかもしれないが、こっちだって緊急事態だ。無駄足を踏んだ消防のみなさんにはホテル側が説明謝罪するべきだ。そりゃそうだろう、俺は客だぞ。しかもひどい目に合わされている客だ。考えてもみろよ、もしも俺に重い持病があったとしたら、こんなところに長時間監禁されてたら死んじまうかもしれない。人命第一だろ。

あなたはライターを持った右手を上げ、火災探知機のそばで着火する。5秒、10秒、20秒。ライターが指が焦げそうなくらい熱くなってきたので一端中止する。探知機は沈黙したままだ。あなたは火災探知機に関する乏しい知識を記憶の中から引っ張り出そうと努力する。探知機には二種類ある。ちゃんとしてる探知機と故障している探知機だ。さらに探知機には熱に反応するものと、煙に反応するものがある。今の時点で俺が望みを託すのは、こいつが煙に反応するタイプの故障していない探知機であってくれることだ。

煙を出そう、とあなたは決意する。トイレットペーパーをガラガラと引っ張り、丸めて大きな塊にした。火を付けてみると意外なことにほとんど煙が出ない。なのに焦げるニオイは驚くほど強力であなたはうんざりする。あなたは冷めた心でトイレットペーパーを便器の中に落とす。じゅっ。吐き気がするほど焦げ臭い。一刻も早く脱出したい。

こうなったらシャツを燃やそう。惜しいけど。着替えは持って来ている。経費で落とせるかな。無理だな。ホテルに文句言って弁償させるか。でもそんな交渉、情けなくて俺にはできないかも。そんな思いにふけっている間に、あなたの手は勝手に動きシャツに火を付けている。

袖に転移した小さな炎は信じられない速さでシャツ全体に広がる。あなたがしまった、と思ったときにはすでに、邪悪な意志に突き動かされた炎は壁に貼られたクロスへの侵攻を果たし、さらなる領土の拡大に傾注している。天井に這い上がった火の手は火災探知機を四方から包囲し間合いを詰めていく。

トイレの探知機は黒焦げになっても反応しなかった。


目次 BBS 次へ
inserted by FC2 system