約束の日 作:まりえしーる 発表日: 2005/07/01(Fri) 09:06


マリエは実家を飛び出したあの日以来、初めて生まれた街に帰ってきた。逃亡生活に疲れたのかもしれない。つかの間の安息が欲しかったのかもしれない。果たしてあの女の戒めを破ってまで帰る必要があったのかどうか、自分でもわからない。

街並みはすっかり変わっていた。これでは帰って来たという実感は湧かない。どこか行きたい場所があったわけでもない。マリエは目に止まった小奇麗なカフェに入った。高校生のころにこんな店があったらよかったのにな。

故郷に戻ってみても今のところ自分のカラダに異変は起こっていない。あの女が言ったことはハッタリだったのかもしれない。あれから何年たったんだろう。そもそもあの女自体、もうこの世にはいないかも。

子連れの若い女がカフェに入ってくるのをマリエはぼんやりと眺める。スタイルのいい美人。連れてる女の子は賢そうだ。この子も将来美人になるんだろう。あたしの人生にも結婚して子供を持つような選択肢があったんだろうか、とマリエは思う。

「パパはもうすぐ来るからここで待ってましょうね」と女が娘に話しているのが聞こえる。「はあい」。自分にも子供時代があったんだろうか。夢見る頃があったんだろうか。マリエには思い出せない。

監禁中に婚姻届を出されてしまったのが、あたしの最大の失敗だ。放火殺人事件の重要参考人。全国指名手配。次はどこに住もうか。

突然、マリエは顔に焼けるような痛みを感じる。「まさか」。マリエは顔を手で押さえトイレに向かう。洗面台の鏡を覗き込むと、自分の顔に真っ赤な手形が浮かび上がっている。

あいつがいる。あの男が近くにいる。あいつらが近づいてきてる。逃げなきゃ。

そのときトイレ入り口のドアが開く。マリエはバッグの中を探りながらその方向を見て、ため息をつく。なんだ子供か。さっきの女の子だ。おどかすなよ。いや、この子の目は、この底なし沼のような目は。

「あんたは…。あんたなの?あんたなのね?どうして、そんな姿を…」
「久しぶりね」と少女が言う。「約束してたよね。覚えているでしょ」

「き、鬼童…」。マリエはバッグから何かを取り出そうとするが、すべて床に落としてしまう。護符、スタンガン、そして手袋。ヒザが激しく震える。少女はマリエに接近する。少女が一歩足を進めるたびに、マリエは圧迫を受け後退させられる。

とうとうマリエは一番奥の個室に押し込まれる。少女がそれに続く。ドアが閉まり、ロックされる。

水流の音がマリエの声を消す。

少女は閉まったままのドアを通り抜けて個室から出てくる。背伸びをし、苦労して洗面台で手を洗う。ハンドドライヤーで入念に手を乾かす。

少女がテーブルに戻ると、すでに父親らしい男がやって来ていた。「パパ、あたしひとりでトイレ行けた」「そうか。えらいぞ、アズサ。お前は俺の宝物だよ、大好きだ」と男は少女を抱き上げる。

「あなたってホント親バカね」と女が笑う。「バカみたいなくらいの愛妻家でもあるけどね。エリカさんは俺の命だよ。今日もすっげーきれいだ」「あはは。何度言われても嬉しくなっちゃうあたしもバカかもね」「パパ、リンゴ買ってね」「わかってるって。それだけは絶対忘れるもんか」「あなたたちは呆れるくらいリンゴが好きな親子だね。なんでだろ。さ、そろそろ行こっか」

男は少女を肩車し、女と腕を組んで街の雑踏に消えていった。


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